「吉原をおしゃれスポットに」 「べらぼう」蔦屋重三郎はスーパービジネスマンだった! 現代でも役立つ仕事術に迫る

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トレーナー、コーチとしての実績

 狂歌という和歌のパロディー文芸も一世を風靡している。その第一人者は南畝なのだが、天明期(1781~89年)には、彼をリーダー格として、著名な戯作者や浮世絵師ら江戸の文人墨客のほとんどが狂歌に興じていた。

 蔦重は南畝の取り込みに成功、オーガナイザーとして狂歌に興じるクリエイターたちを糾合する。耕書堂は文化サロンの様相を呈した。こうして蔦重は江戸の文壇を取り仕切るパトロンにのし上がり、江戸のカウンターカルチャーを牛耳るフィクサーになった。

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 蔦重のスカウトマンとして才能や異能を発掘する目、さらには逸材を育成するトレーナー、コーチとしての実績も見逃せない。その手腕はことに浮世絵で発揮され、歌麿や写楽らを大成させている。

 無名だった歌麿を居候させて衣食住の面倒まで見たのは、彼の才能を愛し信じたからこそ。

 蔦重は歌麿にみっちりとデッサン力を磨かせた。一方で、性を大らかに描く春画に起用、肉感的な女性像を描く技を修得させる。歌麿の「歌満(うたま)くら」は春画の傑作として名高く、海外でも評価が高い。

“謎の浮世絵師”にセンセーショナルなデビューを飾らせた

 これらの成果は、蔦重が40代の円熟期に入った寛政期(1789~)に発表した美人大首絵(おおくびえ)で一気に開花する。

 歌麿の美人画は妖艶ながら決して下品に堕さず、映画のワンシーンのようなストーリー性を秘め、発表と同時に江戸の話題をかっさらう。ほどなく歌麿は当代一の浮世絵師に躍り出た。

「ポッピン(ビードロ)を吹く娘」や「当時三美人」など歌麿の代表作はほとんどが耕書堂から売り出されている。蔦重は版木を彫ったり、紙に刷る裏方に名人級の職人を起用する配慮も忘れていない。

 蔦重の眼力は“謎の浮世絵師”写楽でも存分に発揮されている。阿波藩の能楽師といわれる写楽に絵筆を持たせたのは蔦重だし、全作品を売り出したのも彼だ。

 写楽は28枚の役者絵を一挙同時発売というセンセーショナルなデビューを飾る。これこそ蔦重ならではのアジテーションに他ならない。

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