「偏差値75」の難関高からプロ野球選手に! 早大「山縣秀」が明かす「夏休みは毎日10時間、勉強に打ち込んだ」文武両道のススメ
偏差値75の難関に挑む
「中学時代はほとんど勉強していませんでしたが、そのぶん授業を聞くようにしていて、テストの成績や内申点はそれなりに良い方でした。もしかしたら周囲の人には少し“嫌味な人”に見えてしまっていたかもしれません(苦笑)」と本人は謙遜気味に話すが、山縣の高い集中力やスケジュール管理の的確さは、小学校時代の生活習慣から自ずと培われたものだという。
「僕が小学校の時には、両親に『宿題を終えてから遊びに行きなさい』と叱られたこともありましたが、学年が上がるにつれて『全力で野球に集中するためにはどうすべきか』を考えるようになって、野球の練習に出かける電車の移動時間を利用して漢字の練習をしたり、時間の使い方を工夫するようになりました。中学生になると両親に叱られる場面は少なくなり、自由に過ごさせてもらっていましたけど、子供の頃に意識づけられた習慣が、その後の局面でも生かされているように感じています」
そして、高校受験の本番で偏差値75(2025年みんなの高校情報より)の難関・早大学院の推薦に挑んだ山縣は、3人の先生による面接で「野球を通してどのようにリーダーシップを発揮していくのか」を熱く語り、見事に合格を勝ち取った。
「守備固めで試合に出るのが目標だった」
進学後は「野球よりも勉強を頑張ったような記憶がある」3年間を過ごした山縣は、一時は理系進学を視野に入れるほど勉学に熱中したというが、最終的には「自営業の祖父や親戚の影響で起業に興味があった」ことを理由に商学部を選択。「知的好奇心に溢れる同級生と共に過ごす日々の中で、自分では到底敵わない聡明さを持つ人がいることを知り、自分なりの努力を続けていくことの大切さを知った期間」でもあり、自身の将来と向き合うかけがえのない時間を過ごした。
そして野球に関しても、早大学院は2023年の夏には西東京大会で準決勝に進出を果たすなど、近年は強豪校の一つに数えられるようになったが……。
「僕らが在籍していた頃は、予選の2〜3回戦で負けてしまうことも多く、甲子園出場は遠い夢の世界だと思っていましたし、僕も当時は高校で野球に区切りをつけて、大学では勉強に力を注いでいくつもりでした」というが、そんな山縣の気持ちに変化が現れたのは、大学入学を控えた2021年の春のこと。同級生の「もし合わなかったら2週間で辞めてもいいから、ひとまず練習に行ってみないか?」という誘い文句がきっかけだった。
練習に集う吉納翼(東北楽天・5位)や、後に主将を務める印出太一ら甲子園出場経験を持つ同級生のプレーを見て「確かに凄さはありましたけど、自身と驚くほどの差はないかもしれない……」と感じた山縣は、野球への情熱が再燃。
「『しっかり頑張れば、4年生で守備固めとして試合に出られるくらいの選手にはなれるのではないか』と思った」山縣は、名門野球部の一員として野球を続ける決断を下すこととなった。(後編へ続く)
第2回【日ハム5位指名の「守備職人」は“偏差値75”の難関校出身 早大「山縣秀」が語る“すぐには試合に出られなかった選手”がドラフト指名されるまで】では、名門・早大野球部に入部した山縣秀選手が、すぐに試合に出られない時期を経て、どのようにしてドラフト指名を受ける選手になっていったかに迫る。