「偏差値75」の難関高からプロ野球選手に! 早大「山縣秀」が明かす「夏休みは毎日10時間、勉強に打ち込んだ」文武両道のススメ

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 かつては「勉強が疎かになる」という文脈でやり玉に挙げられたスポーツだが、近年では学業とスポーツの双方で結果を残すアスリートが連日メディアを賑わせ、尊敬の眼差しが向けられている。2024年秋のドラフトで、日本ハムから5位指名を受けた早稲田大学の山縣秀選手もその可能性を秘めた一人だ。

 偏差値75の難関高・早稲田大学高等学院(以下、早大学院)の出身で、同校のOBとしては1957年オフに中日に入団した森徹氏以来となるNPB入りを実現。1965年にドラフト制度の導入以降、初の快挙を成し遂げた。

 文武両道を貫きながらも、どのようにしてプロ野球選手になる夢を叶えたのか。多彩な才能を磨きあげたこれまでの歩みについてお話を伺った。(全2回のうちの第1回)

見事にリーグ連覇を決めた

「若い選手が多いチームなので、1年間怪我せずに溌剌としたプレーを見せられたらなと思います」

 入団が決まった北海道日本ハムでの飛躍を誓う山縣秀は、商学部の卒業に向けた論文執筆の真っ只中。事業に使用する電力の100%を再生可能エネルギーでまかなうことを目指す企業が直面しうるさまざまなリスクについての研究を進めている。

 練習の合間を縫って参加していたゼミでは、他の部活に打ち込む学生たちとの交流を深め、ラグビーの早明戦で死に物狂いにプレーする知人の姿や、応援部のコンサートで聴いた生演奏に感銘を受けたとのこと。充実した学生生活を過ごす友人たちを見て、「自分も頑張らないといけない」との思いが芽生え、自身のプレーにも好影響を及ぼしていたという。

 かくいう山縣も、2024年の東京六大学野球では早稲田の春秋連覇に貢献。秋のリーグ戦では、最後の早慶戦に敗れて勝ち点を落として完全優勝を逃したものの、

「『優勝できればどんな形でも良い』と気持ちを切り替えて、ワクワクしながら臨んだ」優勝決定戦では、宗山塁(東北楽天・ドラフト1位)を擁する明治大を4対0で退けて、見事にリーグ連覇を成し遂げた。

このままだと合格できない

 新潟県三条市で生まれ、まもなく東京に移り住んだ山縣が野球と出会ったのは、幼稚園に通う4歳の時。姉の同級生一家に誘われ、リトルリーグの練習に出向いたことが最初だった。

「元気でよく動く子だった」という山縣は、サードやファーストとして野球に精を出す一方で、同時期からは器械体操や「姉の影響で始め良い気分転換になっていた」というピアノにも取り組み、多彩な才能に磨きをかけていった。

 中学に進んだ後もバドミントンと兼部しながら野球を続け、スポーツ漬けの日々を過ごした山縣は、やがて中学校3年生の夏を迎えた。約半年後に迫る高校受験を見据えて、自身の進路について真剣に向き合うこととなったが……。

「このままだと多分合格出来ないから、焦った方がいいと思う」

 予備校の先生に厳しく突き放されたという山縣は、この言葉をきっかけに一念発起。夏休みに毎日10時間の勉強に打ち込むなどの集中力を発揮し、短期間に偏差値を30ほど伸ばし、難関高への進学を射程圏に捉えた。

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