なんで「部屋とYシャツと私」が代表曲?の疑問はいまも…「平松愛理」がデビューを実感した“新幹線の出来事”

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「部屋とYシャツと私」は友人のために

 そして1992年3月、「部屋とYシャツと私」が発売された。もともと1990年12月に発売されたアルバム「MY DEAR」に収録された曲を、1年以上の時を経てシングルカットしたものだ。もともとは親友の披露宴に向け頼まれて作った。親友の状況をリサーチして制作に約2カ月を費やし、出来立てを披露宴で歌った。

「祝福の気持ちが強く、大親友の彼女のためならと作りました。タイアップがあって頑張って作ってシングルにした曲でもない。だから今でも『何であれが私の代表曲なんだろう』って思ってます(笑)。当時はテンポ130で4拍子、3分台というのがヒットの条件とされていましたし」

「部屋とYシャツと私」は5分台かつ3拍子と、たしかにシングル曲らしくはない。だが詞の内容からさだまさしの「関白宣言」の女性版ともいわれて話題を呼び、有線などからじわじわ注目が集まった。結果、大ヒットを記録したのはご存じのとおり。1992年の第34回レコード大賞では作詞賞を受賞、翌年には歌を原案とする同名の映画も封切られた。

 薬師丸ひろ子や浅香唯など、アーティストへの楽曲提供も顕著に増えた。多忙のため断らざるを得ない案件もあったが、無理してでもやっておけばよかったものもあったと語る。自身が作った曲を他のアーティストが歌うのを聴くと、新鮮に感じるという。

「全く違う生き物になっていますね。歌ってもらえてすごく嬉しいし、こんな歌い方だとこんな風に聞こえるんだとか、たくさんの気づきをもらえます。セルフカバーするときはまた『お帰り』という感覚にもなりますね」

故郷の復興にも尽力

 1995年1月、故郷の神戸市は阪神淡路大震災で未曽有の被害に見舞われた。震災直後は、被災者にインタビューし、ラジオのリポーターを務めたこともあった。だが“餅は餅屋”と気付く。リポートならプロのリポーターの方がちゃんと伝わる。ならば歌で伝えよう、と決意した。

「淡路島ご出身の阿久悠先生から『神戸で1曲書いてみませんか』とご連絡をいただき、先生の詞に私が曲をつけることになりました」

 こうしてチャリティソング「美し都~がんばろやWe love KOBE~」は震災3カ月後の4月に発売された。1997年からは震災復興支援ライブ「KOBE MEETING」を、2020年まで毎年開催してきた。今年は、震災から30年を迎える1月17日に「KOBE MEETING 2025~あれから30年~」を5年ぶりに開催するという。故郷に対する思いをシンガーソングライターとして形にし続けてきたわけだ。

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