なんで「部屋とYシャツと私」が代表曲?の疑問はいまも…「平松愛理」がデビューを実感した“新幹線の出来事”
第1回【“あなたには才能がない”と否定されても…思いを貫いた「平松愛理」の軌跡】のつづき
関西で実績を積み、上京しバンドでデビューを果たした平松愛理だったが、当時の所属事務所は「あなたには何の才能もない」と告げた。貧困生活を送りながらソロデビューを目指して奮闘した平松が、やがて大ヒット曲で一躍脚光を浴びるまでの波乱の半生を振り返る。
(全2回の第2回)
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洗濯物を移し替える時間さえ惜しい
バンド「Honey & B-Boys」を脱退し、ソロデビューに向け、曲作りを始めた。ポニーキャニオンがシンガーソングライターをデビューさせる制作室を立ち上げ、ディレクターに毎週2曲を持参すると平松は決めた。
「事務所を辞めた日に、自分の決断の証が欲しくて、原宿で真っ黒なカンカン帽を買ったんです。帰りの電車賃も気にせずに。本当に電車賃がなくなって歩いて帰りました」
だが、給料制だった事務所を辞めたことでアルバイトの必要に迫られ、曲を作る時間がなくなった。友人から米をわけてもらうような日々。洗濯機も全自動より安い2層式の中古品をいちど買ったものの、洗った洗濯物を脱水層に入れ替える時間を音楽に使いたくて、結局、中古の全自動洗濯機を買い直した。
それでも普通のバイトでは家賃を払うのもままならない。プロになるまで音楽の仕事はしないとの禁を破り、ヤマハで資格を取り、ボーカル講師を始めた。能力給ということもあって以前より暮らしぶりは安定し、仕事が無い日は作詞や作曲、アレンジ作業にも専念できるようになった。
新幹線で斜め前の男性がリズムを取って…
毎週2曲をディレクターのもとへ持参することを続けて半年ほどたった頃、オーディション選考のような機会が与えられた。30人ほどの候補者が、アレンジも含めた自作曲のデータを持参したうえで、その場でコーラスも含め歌うというものだった。シンガーソングライターとして、1曲を完成させる能力をチェックする狙いだ。
「2曲を持って行ってたので、1曲目が終わった後、『次、行きます』と告げたら『もういいよ』って言われたんです」
OKの意の「もういいよ」だった。数日後、ディレクターが「今度、うちでやることになった平松愛理さんです」と紹介してくれた。従前は目も合わせてくれなかった面々が次々に挨拶してくれ、温かいお茶まで出てきた。
年号が平成になったばかりの1989年2月21日、ついにシングル「青春のアルバム」とアルバム「TREASURE」でソロデビューした。レコード店では目立つ場所に自身のCDを並べたが、本当にデビューしたと実感できたのは、大阪へ行く新幹線の中でだったという。
「たまたまグリーン車だったんですが、当時はヘッドホンで音楽が聞けたんです。同じタイミングで乗客たちに同じ曲が流れる仕組みで、そのプレイリストに自分の曲がありました。曲飛ばしもできないので『あと3曲』『あと2曲』と待って、ようやく自分の曲がかかった時、斜め前の席に座っていた30~40代ぐらいの男性が、足でリズムを刻み始めたんです。もしかして私の曲聞いてる?と観察していたら、最後までリズムが一緒で、間違いないなって。素直に感動しました」
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