“明菜さんのような歌を”と懇願され… 伝説の音楽ディレクターが明かす、「中学生の中山美穂」からプロデュースを依頼された日

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妹を連れて…

 中山が歌番組で“ツッパリのイメージ”と言ったように、明菜のセカンドシングルで大ヒットを記録した「少女A」からして、“不良っぽさ”のある挑発的な曲だ。

 元々島田氏は、フリフリの衣装で初恋の曲を歌うようなアイドルを“嘘くさい”と思っており、好きではなかったという。

「私は表裏でいうなら、女性の裏の部分、怖さや強さを魅力だと感じるタイプなんです。美穂さんは明菜以上に“やんちゃ”をしていたように見えました。我々の前では“いい子”として振る舞っていたけれど、その奥に違う一面、裏があるんじゃないかと思ったんです。彼女にただならぬものを感じて、“キャラ”を引き出すために色々尋ねました」

 2009年に刊行したエッセイ本で本人が明かしている通り、中山の戸籍には実父の名前はなく、複雑な家庭環境で育った。幼少の頃は親戚の家に預けられた時期もあり、引っ越しを繰り返す日々を送ったという。別のエッセイ本では、自身を「不良少女」だったともしたためていたが、

「彼女はそうしたことをほとんど話さなかったんです。“僕は事務所の人間でもないし事務所にも言わない。ただ曲のイメージのためにキャラクターを知りたいんだよ”と何度も説明しましたが、家族や恋愛含めた人間関係、学校で思ったこと、感じたことを聞いても、核心に迫るような話はしなかった」

 中学生でありながら、自分の境遇や本音を語ろうとしなかった中山に対して、

「実年齢よりはるかに、精神的に大人だという印象を抱きました。それでも時折、ぽつりぽつりと、“妹を連れて2人で夜の街を徘徊した”と話したことがあり、きっと辛い思いをしたんだろうなと感じたんです」

この子はビッグになる

 この時中山が言及した「妹」とは、1988年にデビューし、息の長い女優として活躍する中山忍(51)のこと。姉がワーナースタジオに来ていた頃、忍は小学生だった。

 自身もまだ中学生で、ブレイク前だったにもかかわらず、妹を思っての行動ととれる場面もあったという。

「ある時、美穂さんは妹の忍さんを連れて来たことがあったんです。“妹も見て欲しい”と。小学生と中学生の姉妹でしたが、2人とも大人っぽくて、とてもその年代には見えませんでした」

 中山の訪問は約八カ月続いたが、結局、島田氏が中山の曲を手掛けることはなかった。

「最後の一押しになるようなものが歌を聞いても浮かばなかったというか…。明菜のように、と言われても、明菜のようには誰もなれないし、明菜の二番煎じをするのが中山さんのためになるとも思えなかった。社長の山中さんにお返事する際、謝りながらも、“この子は絶対ビッグになるから大事にした方がいいですよ”と伝えました」

 島田氏の予感通り、中山はその後、瞬く間にスターの階段を駆け上がり、ドラマでの活躍はもとより、「世界中の誰よりきっと」(※WANDSとのコラボレーション)「ただ泣きたくなるの」とミリオンセラーを連発。歌手としても確固たる地位を築き上げた。

 逃した魚は大きかったと、後悔する日もあったのだろうか。

「売れる子をみすみす他社に渡してしまった、という後悔はありません。あの圧倒的なビジュアルを生かすには、ドラマでブレイクして、主題歌を歌う形が最も合っていたのでしょう。今も昔も明菜はあくまで歌手ですが、中山さんは女優に軸を置いた後に歌も出す方が生きる人だったのだと思います」

 ただ、中山の訃報に触れて、別の後悔が胸に去来することはあったという。

「ふと、もしあの時引き受けていたら、中山さんの違う魅力を引き出すことが出来たのではと思ってしまうのです。自信過剰に聞こえるかもしれませんが、プロデューサ―はそもそも自信過剰な生き物。“自分だけが引き出せるこの子の魅力がある”とどこかで思っていないと、出来ない仕事ですから…」

デイリー新潮編集部

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