“明菜さんのような歌を”と懇願され… 伝説の音楽ディレクターが明かす、「中学生の中山美穂」からプロデュースを依頼された日

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 中山美穂(享年54)が急逝してはや一カ月が過ぎた。彼女には、デビュー前から憧れてやまない歌手がいた。“中森明菜のような歌を”と懇願した、中山の知られざる姿を、明菜のディレクターだった島田雄三氏(76)が初めて明かす。

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「“中森明菜さんのような歌を歌いたんです。島田さん、明菜さんのような歌を作って下さい”。美穂さんが、土下座をせんばかりの勢いでそう言ったのを覚えています」

 こう語るのは、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)の元ディレクターである島田雄三氏。同社在籍時、デビュー曲の「スローモーション」から「ミ アモーレ」まで、明菜の黄金期を担当した人物だ。

 中山が島田氏のもとを訪ねて来たのは、「少女A」や「セカンド・ラブ」など、明菜が次々とヒットを飛ばし、売れに売れていたときだったという。

「1983年頃だったと思います。美穂さんはまだブレイクする前で、無名の存在でした。マネージャーの山中則男(中山の所属先・ビッグアップルの創業者)さんから“この子を売り出せないか”という主旨で連絡をもらい、当時六本木にあったワーナースタジオに来てもらっていたんです。中学生の美穂さんは、制服でスタジオに来ることもありました」

 1982年、中学1年生の時に原宿でスカウトされた中山は、ドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系列)で1985年にブレイクするまで、モデル活動をしながら様々なオーディションを受けていた。彼女が島田氏のところにやって来たのは、この頃である。

明菜の曲は「全部好き」

 スタジオに現れた中山の印象は、

「とにかくビジュアルが抜群によかったです。圧倒的でした。ビジュアルは明菜を超えると思った。瞳の力が言いようもなく強くて、その大きな瞳に反骨心や闘争心が宿っているように見えました。“この子は絶対ビッグになるぞ”と思ったんです」

 中山はそれから、島田氏のいるワーナースタジオに月1回のペースで通った。

「歌ってもらったり話をしたりしました。彼女は明菜のあまり知られていないアルバム曲も全部知っていて、明菜が好きなのは十分過ぎるほど伝わって来た。“どの曲が好き?”と聞いても、“全部好き”と言うんです。実際に明菜の曲を歌ったりもしました」

 明菜に対して人一倍強い憧れを持っていた中山は、ブレイク後の1986年、歌番組に出演した際、明菜本人を前にして、

「デビューする前とか、部屋中に明菜ちゃんのポスターだらけだったんですよ、私」

「最初のデビューの頃、ツッパリのイメージとかで、そういうの大好きで…」

 と、はにかみながら嬉しそうに話したこともあった。

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