パリパラ銅「道下美里」がブラインドマラソンの世界に飛び込んだ理由 「生きている意味が分からなかった」気持ちを一変させた出来事とは(小林信也)
12月1日の第55回防府読売マラソンは、第25回日本視覚障がい女子マラソン選手権が併催されていた。
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東京パラ2020金メダリスト、パリでも銅メダルを取った道下美里もスタートする一団の中にいた。
好天に恵まれ、少し暑いくらいの冬の午後、防府市陸上競技場で道下の帰りを待った。3時間を少し過ぎて道下が伴走者と競技場に戻って来た時、大会関係者の一人が、小走りで本部席に伝えた。
「道下さん帰ってきました。道下さん、帰ってきた!」
歓喜がにじみ出ていた。私は彼のうれしそうな叫び声に、道下美里というマラソンランナーの輝きとその存在の意義を再認識した。
3時間3分42秒、今季ベストで7度目の優勝を遂げてすぐ、スタンド前で優勝インタビューを受けた。
「(30キロ付近から)練習不足が脚に出ました」
残念そうに言いながら、彼女の笑顔は向日葵のように輝き、スタンドの誰もが幸せな気持ちに包まれた。
26歳で盲学校へ
翌日、故郷の下関で〈市民栄誉賞特別賞〉を受けた直後、彼女に会った。「最初の覚醒はいつですか?」、尋ねると少し考えて言った。
「盲学校に入った時ですね」
入学は26歳。他の生徒に比べると遅い。その理由を道下は教えてくれた。
「視覚障害者だとレッテルを貼られるのが嫌だった。私は弱視。ほんの少し左側が見えますから、見えるふりをするのも得意です」
傍らにいた母が言う。
「私は、この子がそんなに見えないとは思っていませんでした」
続けて道下が言った。
「ある時、母が友だちと喋っている会話が聞こえました。友だちに『視覚障害のお子さんを持って大変でしょう』と聞かれて母が、『全然大変だなんて思ったことはないよ』と、さらりと返した。それを聞いて衝撃を受けました。うれしかった。それまで、私なんて家族のお荷物だとひがんでいました。『目が見えなくなったのはお母さんのせいだ』と、母をなじったりしていた自分が情けなくなった。そういえば母の笑顔をずっと見ていないなあ。母が喜ぶことをしたいなあと思って」
母が勧める盲学校入学を決意した。母は将来を案じ、鍼灸(しんきゅう)の技術習得を望んでいた。入学直後、ある出来事に胸を突かれた。
「目の不自由な先生が、階段をすごい勢いで駆け下りて来たんです。目が不自由なのに活動的で明るい。視覚障害を言い訳にしている自分が恥ずかしくなった。
盲学校に入るまで、私はどん底でした。周りのみんながキラキラしていてうらやましかった。生きている意味があるのか、価値があるのか分からなかった。その気持ちが一変しました」
そして、体育の授業で運命的な経験をする。グラウンドを走る短距離走。
「全力で風を切って走るってこんなに気持ちいいんだ! 忘れていた感覚を思い出した。中学では陸上部でしたが、中2で角膜手術を受けたあと、制限があって運動できなかった。
何をするにも他人の手を借りる、足手まといになるんじゃないかと思って」
消極的な日々を重ねていたが、走る喜びを思い出し、陸上部に入った。
「このポッチャリした体をなんとかしたいという思いもあって(笑)。そこから人生が大きく変わった」
中距離の800メートル、1500メートルで競技に出始めた。全国障害者スポーツ大会で優勝。
06年ジャパンパラ競技大会800メートル、1500メートルに優勝。07年にはワールドゲームズのブラジル大会に出場し1500メートルで5位入賞。だが、道下は打ちのめされた。
「自分は世界と闘える選手じゃないと思い知らされた。私が目指した世界は思ったよりハードルが高過ぎる」
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