【べらぼう】いきなり描かれた大火… 江戸でやたらと火災が多かった裏事情
火災に無頓着で放火も頻繁
火事が多く、いったん発生したが最後、このように大規模に広がりやすかった江戸。その理由としては、建造物がすべて木造だったのはむろんのこと、当時の江戸が日本一の過密都市で、とりわけ町人の居住区は路地裏まで長屋がぎっしりと建てこみ、消火能力が低かった以上、延焼を避けられなかった、といった説明がなされる。
しかし、全国どこでもすべての建造物が木造だった江戸時代にも、江戸ほど頻繁に火災が発生した都市はほかにない。ということは、たんに燃えやすいという以外にも、火災が多い理由があったはずである。
それを解くうえで、イギリス初代駐日大使オールコックの対日記録が参考になる。安政6年(1859)5月3日付で次のように書いている。
「(江戸の)住民が、ひじょうに燃えやすい家に住んでいながら、手に負えないほど不注意であり、しかもそのうえに、保険料をもうけるようなことはないはずだのに、ひんぱんに放火が行われる。このようなところでは、お互いどうしが互いに他人の誠実さを全面的に信用するようなことはありえない」(山口光朔訳『大君の都』岩波文庫)
日本には母国イギリスと違って火災保険があるわけでもないのに、火災に無頓着で、しかも放火が頻繁に行われることを訝っているのである。
火事は最大の景気対策
実際、江戸っ子は「宵越しの金は持たねえ」と発言した。火事が多発する江戸では、財産を貯めたところでいつ失うかわからないという、江戸っ子の火事慣れを示すエピソードである。だが、火事慣れの背景には、オールコックが気づいていない事情もあった。
前述の明和の大火は、伝わる通りであるなら個人的な怨恨が原因である。また、愉快犯的な放火もあったようだ。しかし、それ以上に、不景気になると火事が増えたという。すなわち、火事は最大の景気対策だったというのだ。
江戸時代、火事や地震を「世直し」と呼ぶことがあった。とくに庶民はそう呼んだ。つまり、町が焦土と化せば建築ラッシュが生じて、大きな雇用を創出する最大の公共事業につながったからである。
もっとも、景気対策としての放火が多かったという証拠はない。そもそも、放火を働けば火あぶりによる公開処刑にすると、幕府の基本法典である『公事法御定書』で決まっていた。それほどのリスクを背負ってまで放火をするだろうか。
だが、放火犯を出せば町ぐるみで連帯責任を負わされた当時、放火犯を突き出すよりも、知らぬふりをして景気を刺激したほうがよいと、多くの人が考えたとしても不思議ではない。実際、町人の居住区はあまりに放火が多く、オールコックが「かれらはいずれまたほのおの餌食になるということを見こして、できるだけ安あがりに家を再建する」(前掲書)という状況だったからである。
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