【べらぼう】いきなり描かれた大火… 江戸でやたらと火災が多かった裏事情

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冒頭でリアルな炎上シーン

 今年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は、火事の場面ではじまった。第1回「ありがた山の寒がらず」(1月5日放送)の冒頭で描かれたのは、吉原に火の手が迫り、やがて猛火に包まれ、そこから主人公の蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)らが、必死に逃げる様子だった。

 吉原(台東区千束)も全焼したこの火事は、明和9年(1772)2月29日に発生した。「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるが、実際、記録されているだけでも、幕末までに発生した火事は1,800件前後で、大火と呼べるものだけでも約90件におよぶ。なかでも、『べらぼう』で描かれた火事は「明和の大火」と呼ばれ、明暦3年(1657)の「明暦の大火」、文化3年(1806)年の「文化の大火」の3つは「江戸三大大火」と呼ばれる。

 蔦重が遭遇した明和の大火は、その規模がにわかには信じがたいほどだった。焼失したのは934町、寺社382、橋170、大名屋敷169。死者1万4,700人、行方不明者4,060人とされ、行方不明者の命はほとんど失われていたと考えれば、死者は1万9,000人近かったことになる。

 火元は吉原から思いのほか遠かった。最初に出火したのは目黒行人坂(目黒区下目黒)の大円寺で、吉原までは直線距離でも10キロ以上ある。それでも、火は届いてしまったのである。

江戸の3分の1が焼き尽くされた

 この寺の眞秀という僧が、女性と性的関係をもったことを住職にとがめられたことを逆恨みし、放火したことからはじまったとされる。折から西南の強い風が吹いていたため、白金、麻布、西久保、桜田を経由して江戸城に到達し、和田倉、馬場先、日比谷、神田など城の東部の各門を焼き、その内外にあった大名屋敷や評定所、伝奏屋敷などを焼き尽くした。

 別の火の流れもあって、本町、石町、神田、下谷、浅草、千住のほうへと広がり、翌日の昼まで燃え続けたとされる。そんな最中に同日夕、本郷丸山菊坂からもあらたに出火。こちらは道具屋の與八の失火が原因だとされている。このため駒込、千駄木、谷中、そして上野の寛永寺へと燃え広がり、夜明けに谷中本村で鎮火するまで各地を焼き尽くした。

 結局、この火事で、江戸の町の3分の1近く、およそ10キロ四方が焼き尽されたといわれる。上野の山に守られている寛永寺は、不忍池を除く三方から炎が押し寄せながら、寺院の建造物はほとんどが焼失を免れたが、「お歯黒どぶ」と呼ばれる幅5メートル程度の堀で囲まれているだけの吉原は到底、炎を避けることはできずに全焼してしまった。

 こうした大火では、焼死者だけでなく多数の溺死者が発生している。強い風とともに炎が押し寄せ、木造建築が瞬く間にそれに飲み込まれていくなか、とくに密集地に住む町人たちは川や堀、あるいは海に飛び込むしかなかった。当時の江戸はいまでは信じられないほど堀や運河がめぐる水の都だった。結果、水中に修羅場が生じることになった。

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