渡辺えりが語る「前代未聞の古希記念公演」と、相次いで失った「母親」と「母校」への熱い想い
「母」の死と「母校」の閉校
「『鯨よ!』のモデルだった母が、11月10日に、94歳で亡くなったんです。山形で入院していたのですが、その前1か月ほど危篤状態が一進一退状態でつづき、わたしも東京と山形を行ったり来たりの毎日でした。同時に芝居や稽古の準備もしなければならず、たいへんでした。なんとか14日に葬式を終え、翌日からが稽古開始。泣くひまもありませんでした」
渡辺は、2022年に父を95歳で失っている。
「これでわたしも“孤児”になってしまいました。今回は、山形公演もあるので、ぜひ母には観てもらいたかったのですが……」
実は――渡辺が失ったものは、母親だけではなかった。昨年秋、渡辺の母校、東京・池袋にある「舞台芸術学院」――通称“舞芸”が、この3月で閉校することが発表されたのだ。
「ニュースで知って、驚きました。ショックでした。すぐに卒業生で学長の鵜山仁さんに電話しましたよ。なんとかならなかったの~、と。“舞芸”は、わたしの原点でしたから……」
舞台芸術学院は、終戦から3年目の1948(昭和23)年に創設された、老舗の演劇専門学校である。医師・野尻与顕が、演劇を志しながら早世した息子の遺志を継承しようと、私財を投じて設立した。初代学長は、演劇人で作家の秋田雨雀。演劇雑誌「テアトロ」の創刊編集長でもある。
以来、“舞芸”は、足かけ78年間にわたり、1万5000人を超える卒業生をおくりだしてきた。その中には、もたいまさこ、市村正親、ベンガル、李礼仙、濱田めぐみ、羽佐間道夫、いとうあさこ、いずみたく、五木寛之(自称“モグリのニセ学生”)……錚々たる名前が見える。
渡辺えりは、山形西高校で演劇部に所属していたが、小学生時代から“演劇少女”だった。だが、中学教師だった父は、演劇の道に進むことに大反対だった。
「でも、とうとう最後には折れて、『校名に“学院”と付くような、キチンとした学校なら行ってもよい』といってくれたんです。そこで学校の図書館へ行って、学校案内を開いたら、最初に載っていたのが〈舞台芸術学院〉でした。〈芸術〉と〈学院〉! これでやっと父も認めてくれました。当時は山形から東京まで、特急でも6時間かかる時代でした。受験のときは、母が付き添ってくれました」
こうして渡辺は、1973年4月、“舞芸”本科演劇部の第23期生となる。最初のうちは、山形弁を話すのが恥ずかしくて、あまり口をきかない、おとなしい学生だったという。だが次第に打ち解け、彼女本来のパワフルな才能が爆発するようになる。卒業公演では、シェイクスピア「十二夜」の道化フェステを演じた。さらに……
「仲間たちと、演劇雑誌みたいなものをつくったんです。もともと中学高校でも、演劇のパンフレットみたいなものを自分で作っていましたから、慣れていました」
その雑誌を、覚えているひとがいる。渡辺の“舞芸”の同期生で、現在、池袋で小料理屋「鯛の鯛」を営む、山田保さんだ。
「あれは、すごい雑誌でした。いまでも忘れられません。学生が作ったものとは、とても思えなかった。清水邦夫、つかこうへい、李礼仙……錚々たる演劇人が、インタビューや寄稿で、ズラリと登場していました。それを、ジュリ子が、ほとんどひとりでつくっていたんだから。カットもジュリ子でしたよ。驚くべき学生がいるなと思いました」
ちなみに“ジュリ子”とは、同級生たちがつけた仇名である。要するにジュリー(沢田研二)の熱狂的なファンだったのだ。子どものころから「東京へ行って、ジュリーと結婚するんだ!」と夢見ていたそうである。
「それどころか、“舞芸”は専門学校だから、本来2年制なんですが、ジュリ子は自らミュージカル科の学生たちにも呼びかけて〈専修科〉をつくり、もう1年、余計に在籍していたんですよ」(山田さん)
その3年目、渡辺は、これまた驚くべきことをやった。
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