未亡人の母は「大学生のお兄さん」に奪われて…家庭問題、いじめ、新興宗教 45歳男性が送った壮絶な幼少時代
お布施に消えた貯金
いつしか彼は家に住み着いてしまった。母は仕事の合間に手料理を作り、彼にせっせと食べさせる。“おにいさん”は恩義を感じていたのか、晶史さんのいい家庭教師にはなってくれた。だが、彼にとっては「母を奪った男」にしか見えなかった。
中学に入ったころ、“おにいさん”は突然、姿を消した。母は見るからに落ち込み、仕事を休むようになっていった。一方、彼はその“おにいさん”のおかげで、中学入学とともに学校へ行き始めた。勉強が楽しくなったのだ。ただ、今度は家に「ヘンな人たち」がくるようになった。
「母が新興宗教にはまったんですよ。気が弱くなったところにつけ込まれることがあるんでしょうね。せっせと働いて、僕のためにと少しずつ預金してくれていたお金を、結局、お布施として差し出してしまったみたいです。僕にも週末はお祈りに行こうとかいろいろ言っていましたが、僕はすべて拒否しました。家に来る人たちが気持ち悪かった。取り込まれてはいけないと本能的に感じていました」
母は彼のためではなく、その宗教のために生きているとしか思えなくなった。彼が公立の高校に合格したとき、「教団施設でいっしょに暮らそう」と母に言われた。だが彼はそれも全面的に拒否した。
「母は寂しかったんでしょうね。僕が高校生の間は、週に数回は自宅にいましたが、高校卒業と同時に教団施設に住むと言って出ていきました。僕は高校から東京の会社を紹介されて就職したんです」
母とはそれきり会っていない。こんな環境で生活してきたら、「世間の動きや流れはまったくわからなかった」と彼は言う。
世間を知って「絶望」
だが就職して初めて、晶史さんは「世間」を知った。「田舎から出てきて、何もわからないんです」と下手に出ることで先輩たちからいろいろなことを教わった。先輩は素直な後輩が好きなこと、まっすぐ人の目を見て元気に返事をすると好感をもたれること、最低限の世渡りを身につけた。それでも「根っからの“いい子”にはなれなかった。生まれ育った環境にコンプレックスがありすぎた」と彼は言う。
就職してからの10年間は、何もかも「社会勉強」だった。10年たって、ようやく「一般の世間」がわかったような気になったとき、彼は自分の過去に絶望感を覚えた。それでも生きていくしかない。根がまじめなのだろう。どうせ生きるならやはり少しでも「よりよく」生きたいと彼は願った。
「心の中は虚しさでいっぱいなのに、社会人としてきちんと生きていかなければならないと思っていた。でもわかっていたんです、僕はしょせん、こっち側の人間。世間の人はあっち側の人間。どこかでラインを引いていたような気がします」
決して交わらない、あちら側とこちら側。個人的には彼にいたく共感するところがあるのだが、どのくらいの人が「自分の世界と他の世界」を意識しながら生きているのかはわからない。
「同じ匂いを感じた女性とネットを通じて知り合ったのは29歳のときでした。明るく見せていたけど、たぶん僕より心の奥底が腐っていた。腐るって悪い意味じゃないんです、傷んでる感じ」
秋奈さんというその彼女と実際に会って、彼は「こちら側の人間だ」と確信した。ふたりは知り合って半年後に婚姻届を出した。生まれ育った環境について、詳細はお互いに話していないが、どちらからも「親との顔合わせはどうする」という話は出なかった。それがすべてですよ、と彼は淡々と言った。
だが妻となった秋奈さんの「闇」は、彼の想像を超えていた。【後編】で詳しく紹介している。
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