未亡人の母は「大学生のお兄さん」に奪われて…家庭問題、いじめ、新興宗教 45歳男性が送った壮絶な幼少時代
【前後編の前編/後編を読む】ネットで出会った妻の「闇」がヤバかった バッグにむき出しの札束、理由を聞くと涙を流し始め…
自分自身の生い立ちや考え方、価値観がどこか世間のそれらとズレていると感じている人は少なくないのではないだろうか。世の中には「世間値」というものがある。多くの人が支持する考え方や行動、つまりは人としての生き方の王道といってもいいかもしれない。そこからはずれると人は生きづらくなる。あえてアウトローとして生きていく手もあるが、その場合でも「世間値」は把握しておいたほうがいい。世間値からのズレ具合をわかっておいたほうが生きやすいからだ。
【後編を読む】ネットで出会った妻の「闇」がヤバかった バッグにむき出しの札束、理由を聞くと涙を流し始め…
「そういう意味では、僕は子どものころからズレていた。というか、育った環境がズレていたので、自分ではそれが普通だと思い込んでいた時期もありますね。自分では修正しようもなかったし。“普通”じゃない道を歩きたいと思ったことはないんですが」
芝田晶史さん(45歳・仮名=以下同)は、苦い笑みを顔に貼りつけたままそう言った。若いころも、そして今も、世間とはズレている。ついでに妻もズレていて、そのズレ具合が自分とは違っていた。それが現状を引き起こしていると分析した。
田舎の冷たい家庭
彼は、ある地方の小さな町に生まれ育った。父方の祖父母と同居しており、母はいつも舅姑の顔色をうかがっているのが幼心につらかったという。
「僕は兄と姉がいる末っ子でした。母は20歳のころ、近くの村から『もらってきた女』だと祖父母がよく言っていた。丈夫で働いてくれそうだったから、と。祖父母は兄のことはかわいがっていたけど、姉と僕のことはほとんど無視。父は母には冷たく当たるくせに自分の親には意見ひとつ言えないタイプ。母は優しかった。21歳で兄を産み、翌年、姉を出産。僕は母が25歳のときの子です。本当は3人目はいらなかったと祖母に言われたこともありましたね」
長男だけが尊ばれる家だったようだ。とはいえ、特別な家系でもなく、祖父母と母は農業を、父は会社員をしながらそれを手伝う、「田舎にはよくある家」だった。
「広い家でしたが、いつも空気がひんやりしている。人の温かさが感じられない家でしたね。食事も家族全員ではしないんです。母と姉はいつも土間の台所で食べていた。5歳くらいのときかな、僕もあっちで食べると言って土間で食べるようになりました。母のことを思うと、今でも胸が痛くなります。決して幸せな人生ではなかった」
父の急逝、そして不登校に
晶史さんが9歳のころ、父が突然、亡くなった。今でいう心不全だったようだ。祖父母は「おまえが息子を殺した」と母を責めた。その後、姉は子どものいなかった近くの親戚にもらわれていき、彼は母親とふたり、家を追い出された。
「何があったのかよくわからない。母も特に話しませんでした。ただ僕を抱きしめて『ふたりで生きていこうね』と。だけど兄や姉の動向が気になったのか、遠くに行くつもりはなかった。祖父母の家からそれほど遠くない町の小さなアパートでふたりで暮らすことになりました」
ただ、転校は余儀なくされた。そして家庭環境もあり、彼は新しい学校でいじめられるようになる。何も悪いことをしていないのに、トイレに閉じ込められてホースの水を浴びせられたり、上履きを切り刻まれたりした。
「でも朝から晩まで働いている母には、何も言えなかった。そのうち学校に行くフリをして家に戻るようになりました。近所に図書館があったので、そこにいることもあったけど、学校に行っていないのが司書さんにバレるから、夕方本を借りて、次の日はずっと家で本を読んでいる。その次の日の夕方にまた行って、本を返して別の本を借りる。そんなことを繰り返していました。学校から母に連絡はあったと思う。1度、母が『学校には行かないの?』というから行きたくないと答えたら、わかった、と」
その後、母はアパートに若い男性を連れてきた。「このおにいさんが、晶史の勉強を見てくれるから」と紹介してくれた。たぶん、大学生だったのだろうと晶史さんは言う。そして母は、その人に恋をしていたのではないかと彼は推測している。
「当時、母は35歳。若いですよね。夫に死なれて家を追い出されて、朝から晩まで働きづめで。僕は話し相手にもなれないし、学校にも行こうとしないろくでなし。そんな母の心の支えが、そのおにいさんだったんだと思う」
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