北新地のクラブを10軒ハシゴ…大阪に愛された「やしきたかじん」が歩んだ“ボンボン”から“浪速の視聴率男”への道

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東京で何度挑戦してもうまくいかず

 大学を中退した彼は京都に向かった。

「そこから彼の新しい人生が始まるのですが、青春時代は暗かった」

 とは、長年の交流があった大阪在住の放送作家・古川嘉一郎氏。

「21歳で結婚し、娘が生まれるのですが、彼は奥さんと別れ子供を捨てて、プロ歌手になると言って上京します。けれど、挫折して京都に戻り、弾き語りの歌手を4年やっていました。そのうち、京都の祇園でムキになって歌ってる男がいるという噂になり、東京の音楽プロデューサーが訪ねてきて、それがきっかけで1976年にデビュー。80年には本格的に歌手活動をするため東京に移ったのですが、水が合わないと82年に大阪へ戻ってきました。東京では何度挑戦してもうまくいかず、それが逆に、東京なんかに負けるものか、大阪で天下を取ったる、というエネルギーになったと思います」

 その後、「東京」や「やっぱ好きやねん」などが立て続けにヒットし、テレビ司会者としても人気を博していった。一方、夜の遊びも豪快だった。テレビ出演のギャラは1本200万円で年間およそ3億円の収入。その他にコンサートのギャラもかなりの額に上っていたという。

藤山寛美さんに憧れていた

「たかじんさんが北新地のクラブを15分ほどで出てしまうというのは本当の話。『ここに顔出すからには、あそこも顔を出さなあかんやろ』と1日に何軒もハシゴをしていましたね」

 とは先のプロデューサーだが、別のテレビ関係者もこう証言する。

「全部自腹で飲むんですからそれはすごかった。一晩に10軒も回って、朝どころか昼まで飲むこともありました。仕事のある人は途中で抜けて、そこから職場に帰っていきました」

 一晩で数百万円も散財することがあったという。

「たかじんさんは、夜の街で湯水のようにお金を使っていた松竹新喜劇の大スター、藤山寛美さんに憧れていた。芸人はケチケチするもんじゃないと考えていたようでしたね」(在阪テレビ局のディレクター)

 北新地のあるクラブママは駆け出し時代のこんなエピソードを披露する。

「まだこの世界に入ったばかりで売上げのノルマをこなせずに困っている時、たかじんさんに電話で相談したんです。そうしたら、テレビ局のスタッフをロケバスに30人ほど乗せて飲みに来てくれたんですよ」

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