北新地のクラブを10軒ハシゴ…大阪に愛された「やしきたかじん」が歩んだ“ボンボン”から“浪速の視聴率男”への道

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第1回【早朝まで“怒りの反省会”、創価学会を番組テーマに…在京テレビ局のタブーを打ち破った「やしきたかじん」が“浪速の視聴率男”だった理由】を読む

 在京テレビ局の番組出演や、自身の番組の在京ネット放送を極力抑えるという方針を堅持し、関西ローカル圏で絶大な人気を誇ったシンガーソングライター、タレントのやしきたかじんさん。2014年1月3日に64歳で死去した際は、在阪民放テレビ5局と当時の安倍晋三首相を含む10人が発起人となったお別れ会が執り行われるほどだった。

“浪速の視聴率男”と呼ばれ、数々の名曲でも人を酔わせたやしきさん。第2回は、紆余曲折があった若い時代と、大阪の有名喜劇役者に憧れた“夜遊び術”、食道がんが発覚した頃の様子など、テレビでは観られなかった素顔について、関係者の証言をお伝えする。

(全2回の第2回:「週刊新潮」2014年1月23日号「大阪に愛された『やしきたかじん』棺を蓋いて」をもとに再構成しました。文中の役職等は掲載当時のままです。敬称一部略)

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会社社長の父は怖い存在だった

 この浪速の人気者は、大阪は西成区の生まれである。

「お父さんは本当に厳しくて真面目な方でしたよ。会社の社長で、従業員は100人ぐらいおったんとちゃうかな。せやから、たかじんは小さい頃からボンボンで育っているんです」

 というのは親族の一人。

「たかじんの4人の兄弟はみんなお父さんに敬語で話していたくらい、怖い存在やったと思いますよ。あの兄弟はお父さんが帰ってくると2階に逃げていっていましたからね。たかじんはこっちにいる時は真面目な子で、不良みたいなことはしなかった。でも、弁の立つ子で面白いとは思っていましたけどね。

 たかじんが実家を出たのは大学中退後。家にいる時はよくギターを鳴らしていました。お父さんは大学を卒業したら自分の会社に入れたかったのに、たかじんは『音楽をやるために大学をやめる』と言い出したため、勘当され、家を出ていきました」

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