宇多田ヒカルの母「藤圭子」の人生を変えた“運命の一夜”…健康ランドで歌う“中3の少女”を見出した「銀髪の紳士」の正体
上座に座っている銀髪の紳士
「あの子は何だ?」
「上手ねえ……」
冒頭の“その日”も、15名ほどの団体客の前で「トリ」の圭子が歌い始めると、にぎやかだった会場の端々からため息が漏れた。そしてこれもいつもと同じく、2曲目になると、客も歌声に慣れる。再び会場には騒ぎ声が響き始める。
と、三郎の目に入ったのは、一番奥、上座に座っている、茶色いスーツの銀髪の紳士だった。
「その人だけは、黙って最後までじっと妹の声に耳を傾けていたのです。やがて余興が終わると、今度は親父を呼んで真剣に話をしている。私は、何か粗相でもあったのか、とドキドキしながらその様子を見ていました。10分くらいして戻ってきた親父に聞くと、一言『あの娘(こ)は歌手になれる』って言われたよと」
その紳士とは、八洲(やしま)秀章氏。戦後、「あざみの歌」で大ヒットを飛ばし、島倉千代子、倍賞千恵子らを育てた、大物作曲家であった。
もっとも一家は、北海道の片隅で日々の暮らしに追われながら生きてきた歴史しか持たない。
「家族の誰一人として、八洲先生のことを知りませんでした。だから、そんな話を聞いても半信半疑。酔った勢いで出まかせを言ったくらいに思っていたのです。ところが、数日後、再び喜楽園に先生が来て、『来月の岩見沢市のコンサートに出てみないか』と親父を誘うじゃないですか。この時はじめて、先生は本気なんだと思い始めました」
あの出会いがなければ…
当日、生バンドをバックに「出世街道」を歌い上げた圭子を、八洲氏は大絶賛。「東京に出して歌手デビューさせましょう」と持ちかけてきた。一家はこれに命運を賭け、彼女が中学を卒業した5月、50万円で家を売って上京を果たす。
「新宿の女」で衝撃のデビューをし、「圭子の夢は夜ひらく」でトップ歌手の仲間入りをするのは、そのわずか3年後のことであった。
半世紀前を振り返って、三郎は言う。
「実は、上京して半年と経たないうちに、八洲先生と親父は大喧嘩をして、袂を分かちます。そして、妹は石坂まさを先生と出会い、大ヒットに恵まれた。なぜあの日、大御所の八洲先生が田舎町に来ていたのかはわかりませんが、ただ、あの出会いがなければ、妹はヒット曲どころか、歌手になるきっかけもなかったと思います」
その八洲氏は30年前、平成の世を待たずして鬼籍に入った。また、藤圭子も2年前、自ら命を絶ったのは記憶に新しい。
今となっては、岩見沢での邂逅がどんな糸に導かれたものなのか、確かめる術はない。しかし、寂れた北の町での一つの出会いが、一家のみならず、昭和の歌謡史にとっても運命の転換点となったことは紛れもない事実なのである。
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