宇多田ヒカルの母「藤圭子」の人生を変えた“運命の一夜”…健康ランドで歌う“中3の少女”を見出した「銀髪の紳士」の正体
15、16、17と私の人生暗かった――。高度成長期の末、人々が繁栄を謳歌する一方、心を揺さぶられていたのは、貧苦と苦悩の闇底から聞こえてくるような歌声だった。演歌ではなく、“怨歌”歌いと評された藤圭子さん(享年62)。彼女の人生を変えたのは、北海道・岩見沢の健康ランドで起きた「銀髪の紳士」との邂逅だった。またこの出会いは、昭和の歌謡史にとっても運命の転換点である。圭子さんの兄が、家族の目から見た「スター誕生」の瞬間を語った。
(「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「『黄金の昭和』探訪」より「『スーパースター』運命の一日 藤圭子:『健康ランド』宴会の余興だった『赤貧歌姫』栄光への脱出」をもとに再構成しました。文中の年齢等は掲載当時のままです)
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家族が総出で“仕事”をしていた
北海道の中西部に位置する岩見沢市は、冬になれば積雪が2メートル近くにも上る、日本有数の豪雪地帯である。
昭和42(1967)年は、この地域の経済を支えた炭鉱業も陰りを見せ、人々が新たな稼ぎ口を探しに町を後にし始めた、そんな時代であった。
「あれは確か1月の半ばのこと。辺り一面が、背丈より高く積もった雪で覆われていました」
と回顧するのは、藤圭子のふたつ年上の兄・藤三郎である。
「その日も、まだ中学3年生だった妹と私は放課後、母に連れられて近くの健康ランド『喜楽園』に向かいました。うちは貧しくて、家族が総出で“仕事”をしなければ、とても食べていけなかったんですよ……」
藤圭子の父と目の不自由な母が流しの浪曲師と三味線弾きだったことは知られている。両親は幼い兄妹を連れ、各地を回った。炭鉱の宿舎や採掘現場。村の祭り。時には門前に立って「一曲いかがですか」と歌を披露し、心付けを貰って生計を立てていたが、子どもが育つと放浪の生活に見切りを付け、やがて父は岩見沢市で健康ランドの演芸部長として働くようになっていたのだ。
中学生にして既に一家の稼ぎ頭
三郎が続ける。
「いつも妹は学校から帰ると白いシャツに紺のスカートに着替え、喜楽園で夕方6時からの宴会に“出演”するのです。余興のトップバッターは漫才師。次に親父が出て、自ら司会をしながら股旅ものの演歌を、続いておふくろが民謡を歌う。私の仕事はギターで伴奏を付けること。そして、トリを務めるのは決まって妹でした」
当時の圭子は、身長が150センチ、体重は40キロあるかないかの華奢な体つきだった。
「オマケにあのくりっとした目ですから、本当に子どもにしか見えない。そんな妹が、身体のどこを鳴らせば出てくるのかと思うような、低い声で歌い出すと、宴会場の雰囲気が一変するんです。お客さんはだいたい、二度見をしていましたね。まず誰が歌っているのかわからなくなる。で、キョロキョロして、声の主が前で歌っている女の子だとわかって、『えっあんな子どもが』とビックリするのです」
その頃の彼女が好んで歌っていたのは、北島三郎の「函館の女」や畠山みどりの「出世街道」。学校の帰り道にそれらを口ずさむと、近所の人が思わず聞き耳を立てる――。そんな天性の歌声を持つ圭子は、中学生にして、既に一家の稼ぎ頭の「プロの歌手」であった。
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