自己流で“やってはいけない”趣味の代表格は「歌」 では、“自己流のほうがいい”趣味とは――?
自己流でいい趣味
いっぽう、文学の趣味、すなわち俳句や和歌、あるいは文章などの世界は、音楽などと違って誰かに教わったからとて、かならず上手くなるというものではありません。
また、絵画なども、ある意味では自己流で取り組んだほうがよいという側面もある、と私は思っています。例えば棟方志功は、あの独特な絵の描き方を誰に教わったのでしょうか。彼はゴッホに私淑して、その世界にあこがれたことは事実ですが、むろんゴッホに教わったわけでもなく、彼の内発する「力」がおのずから外に湧出して光輝を放っている、というものであろうと思います。
文章の世界で申すならば、夏目漱石や森鷗外も、文章の先生について学んだとか、だれか先人の模倣から文学を始めたというわけではありません。多少は先行の人に影響をうけたかもしれませんが、本質的には彼らの文章は、その心の中から自発的に湧き出てきた世界なのだろうと思います。
だから、文学や絵画での創造を行うについては、必ずだれか先生につかなくてはいけないというものではなく、それはむしろ間違った考えかと思います。文学や絵画は、ほんらい自発的で誰からも独立の世界であるべきです。先生に頼らず、すぐに始められる芸術の代表格が俳句です。
俳句は紙とペンがあれば、すぐに始められますから、一生の趣味に選ぶにはうってつけの芸術といえます。俳句を学ぶとなると、多くの人はカルチャーセンターの俳句講座に通ったり、俳人の先生が主宰する俳句結社に入会したりしなくてはいけないと思っているかもしれません。というより、そういう順序を経ないと句作などできないと思い込んでいます。でも、実際には講座や結社に入らなくても俳句を始めることはできます。むしろ私は結社などには属しないで始めたほうがいいと思っています。
俳句をするとき手放すべきでない「喜び」
五・七・五の十七字で詠む、季語を入れる。季語を入れる基本的に俳句の作り方は、この二つを知っておけば十分です。あとは自由に句作をすればよくて、当面、それ以上に人から教えてもらう必要はありません。いや、もしなにらかの学習が必要だとしたら、「古人に学べ」ということを強調しておきたいと思います。
江戸時代の芭蕉や蕪村をはじめとする俳人たちののこした文雅の世界、それを文庫本でもなんでもいいから、ただせっせと読み、感じ、味わう。それがなによりの勉強であろうと思います。俳句の面白さは、五・七・五の十七文字に「それぞれの人の個性」もしくは「一人一人の人生」が凝縮して表れるところにあります。
ところが、教室や結社の先生に俳句を教えてもらおうとすると、どうしても先生の見方や考え方、表現法をば「あが仏尊とし」とむやみに尊崇するということがあります。せっかく表現された一人一人の個性が、一定の方向に矯正され、気がつけば先生を小型化したような句しか生み出せなくなります。
私自身、かつて有名な俳人の句会に参加した経験もあるのですが、どうしても違和感が拭い切れませんでした。というのは、参加者の全員が初めから先生の顔色を窺っていて、先生が気に入りそうな句ばかり作ろうとするのです。それもそのはず、その句会では、先生は無制限に選句する権利を与えられているので、評価されようと思うならば、先生の作品を真似るのが早道なんだろうなあと思ったことでした。
そうなれば、俳句は個性を表現するためにあるのに、個性を表現せずに先生を真似た句を作るというのが目標になってしまって、いささか本末転倒のところがあります。どこまで行っても「自分らしい俳句」を作り、それが皆から選ばれて評価されれば、非常に嬉しい気持ちになります。俳句をするのなら、その喜びを手放すべきではありません。
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この記事の前編では、同じく『結局、人生最後に残る趣味は何か』(草思社)より、「趣味を始める最適なタイミング」について、林望氏の説得力あるアドバイスを掲載している。