なぜ日本代表は世界トップクラスのチームに成長したのか Jリーグ誕生、呪われた10・26、ハンス・オフト監督の就任、加茂周監督の更迭…苦難の歴史を振り返る
加茂監督の更迭
初めてとなるW杯出場――歓迎すべき決定だが、日本にとっては別の意味でプレッシャーがかかった。過去のW杯開催国は、その前に予選を突破して出場していたからだ。開催国での初出場は前例がなかった(2022年カタールW杯が初となる)。何が何でも1998年フランスW杯の出場権を獲得しなければならない。
日本の切り札として起用された加茂周監督は1次予選を簡単に突破して、1997年9月から始まったアジア最終予選に臨んだ。5か国によるリーグ戦で、ストレートに出場権が与えられるのは1か国のみ。このアジア最終予選は、まさにジェットコースターのようなスリル満点の予選となった。
ホーム初戦でウズベキスタンに6-3と快勝した日本だったが、アウェーのUAE戦を0-0で引き分けると、ホームの韓国戦は1-2の逆転負け。アウェーのカザフスタン戦も後半ロスタイムの失点で1-1のドロー。4試合を終えて日本の勝点は5のまま。
4戦全勝の首位・韓国とは勝点7差をつけられ、キャプテンの井原正巳も「まだ4試合残っている。第3代表決定戦に出られる。(大陸間プレーオフの)オーストラリア戦だってある」と現実を受け入れるしかなかった。
同日深夜、加茂監督の更迭が発表されコーチの岡田武史が監督を引く継ぐことになった。
国立競技場で抗議の投石事件
アウェーの連戦となったウズベキスタン戦は先制される苦しい展開だった。しかし89分に、ホームのウズベキスタン戦後に日本国籍を取得して代表入りした呂比須ワグナーの起死回生のゴールで同点に追いつく粘りを見せた。
ホームに戻っての第6戦、UAE戦は勝てば2位に浮上できるチャンスがあり、呂比須のゴールで先制しながら1-1のドロー。この時点で韓国は5勝1分けの勝点16でW杯の出場権を獲得したため、勝点7の日本は、勝点8のUAEと2位の座を争うことになった。試合後、激高したファンが国立競技場の正面玄関で柵越しに投石事件を起こすトラブルもあった。
第7戦はアウェーの韓国戦。この試合で岡田監督は、アウェーでも前半の早い時間から勝負に出る策をとった。これが奏功し、開始1分に名波浩のゴールで先制すると前半のうちに追加点を奪い2-0の勝利を収める。さらにUAEがウズベキスタンと引き分けたため、日本は2位に再浮上。最終戦のカザフスタンに勝てば第3代表決定戦に出られることになった。
最終戦を前に日本は三浦知と呂比須が累積警告による出場停止。岡田監督は高木琢也と中山を代表に復帰させた。中山は、初戦のウズベキスタン戦の際はテレビ局のピッチレポーターを務めていた。試合は中山や高木、中田英寿らのゴールで5-1と圧勝して2位の座を死守した。
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