なぜ日本代表は世界トップクラスのチームに成長したのか Jリーグ誕生、呪われた10・26、ハンス・オフト監督の就任、加茂周監督の更迭…苦難の歴史を振り返る

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歴史的な屈辱「ドーハの悲劇」

「メキシコかソウル。どちらかに出場していたら、Jリーグは間違いなく誕生していなかった。『出られたのだから、アマチュアのままでいいじゃないか』と言われ、プロ化の機運は失われていた」――代表監督を退いてJFA(日本サッカー協会)の技術委員を務めていた石井にそう聞かされた木之本は、プロ化への決意を新たにした。

 ただ、1989年のイタリアW杯1次予選はまだプロリーグは誕生していない。アマチュアで臨んだ日本代表は香港と2引き分け、インドネシアと1勝1分け、そして北朝鮮には1勝1敗で1次予選敗退を余儀なくされた。

 横山謙三監督は北朝鮮との試合後、「攻守において1対1で優位に立つことができなければ、いつになっても勝てない」と日本の現状を嘆くしかなかった。

 1993年5月、Jリーグが誕生した。だからといって、すぐに日本代表の実力がアップするわけではない。しかし週2試合、しかも延長とPK戦まである(引き分けはなかった)ハードな連戦に、選手は確実にタフになっていた。

 アメリカW杯アジア1次予選で難敵のUAEを退けて決勝ラウンドに進出すると、第2戦でイランに1-2で敗れたものの北朝鮮(3-0)と韓国(1-0)を連破し、最終戦のイラク戦も三浦知良と中山雅史のゴールで2-1とリードした。このまま終われば初のW杯出場が決まる。

 しかし後半ロスタイム、イラクの右CKから失点し、2-2のドロー。つかみかけた出場権はするりと手からこぼれ落ち、土壇場で韓国が3大会連続してW杯のキップを手にした。「ドーハの悲劇」として記憶される10・28である。

決定した日韓共催

 1989年に日本国籍を取得したラモス瑠偉、プロ化を視野に入れてブラジルから帰国した三浦知らを擁し、92年のダイナスティー・カップでは62年ぶりにアジアの公式大会で優勝したのがハンス・オフト監督だった。日本サッカー界初となる“プロ監督”である。

「アイコンタクト」、「トライアングル」などシンプルなキーワードで戦術の基礎を日本に導入し、92年11月には広島で開催されたアジアカップでも初優勝を果たすなど、着実に成果を上げた。Jリーグ誕生で空前のサッカーブームが起こり、「今度こそ」と期待はいやが上にも高まった。しかしW杯の壁は想像以上に厚かった。

 1996年5月31日、2002年にアジアで初めて開催されるW杯が日本と韓国の共同開催となった。本来なら6月1日のFIFA総会で、日本か韓国のどちらかでの開催が決まるはずだった。

 しかし前年、日韓両国を視察したドイツ人のホルスト・シュミットは、「膨大なコストを費やした招致合戦と、日韓どちらかの開催になった場合に敗れた国のサッカー界が受けるダメージは計り知れない」として、W杯史上初となる“共催”を提案。これがFIFA総会の前日に理事の1人が囲み取材で漏らしたことで、日韓共催が既成事実となって全世界にニュースが流れた。

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