「ラストエンペラーの姪」はなぜ“青森県出身の青年”とピストル心中を遂げたのか…実妹が明かしていた“天国で結ぶ恋”の知られざる真相

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父と16年ぶりの対面は遺骨で

 10余年の収容所生活を経て溥傑氏は昭和36年、中国の広東で浩さん、嫮生さん母子に16年ぶりに対面する。が、慧生さんだけは遺骨での対面となった。

 浩さんが生前自ら著した『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫)はその時の様子を、

〈「お父さま……」
 私は一言も口がきけませんでした。夫も私を見上げたま無言でした。……
 膝の上で大事に抱えてきた慧生の遺骨は、生前あれほど恋しがっていた父の腕にしっかりいだかれました。
「申し訳ございません」
 私は言いかけて、喉をつまらせてしまいました。夫も目をしばたかせて、何度も頷いていました。……〉

 と記している。

 嫮生さんは日本へ帰国し、溥傑、浩夫妻はそのまま中国に残った。

 その浩さんも文化大革命中に投与された薬がもとで腎臓を患い、やがて人工透析を受けるようになる。昭和62年6月20日、北京で波乱の生涯を閉じた。

日課は妻と長女の遺骨に祈りを捧げること

 一方、嫮生さんは、嵯峨家ともゆかりがある神戸の福永家に嫁ぎ、長女を筆頭に、三男二女がいる。

「現在、夫は福祉に役立てれば、と須磨に持っている土地に有料老人ホームを建てて休みもないほどの忙しさです」

 と嫮生さんは言う。その神戸の福永邸を、今も全人代の常務委員を務める溥傑氏は2年に一度ぐらいの割合で、訪れている。

 5人の孫に会うのが何よりの楽しみだそうだが、北京での溥傑氏は、分骨された浩さん、慧生さんの遺骨と写真に、毎朝自室で祈りを捧げるのが唯一の日課だという。

 ***

「無理心中」と主張する親族、一方で周囲は――。第1回【青森・八戸出身の青年とピストル心中した「ラストエンペラーの姪」 親友女性が証言した「交際の様子」「忘れられない口癖」】では、慧生の親友だった女性が2人の関係性などを語っている。

デイリー新潮編集部

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