「ラストエンペラーの姪」はなぜ“青森県出身の青年”とピストル心中を遂げたのか…実妹が明かしていた“天国で結ぶ恋”の知られざる真相
ショックのあまり起き上がれなかった母
母子が大陸を離れ、上海から日本に向かうことができたのは、昭和22年2月のことだった。
収容所生活を続ける夫・溥傑氏とは離ればなれだったものの、日本に残していた長女・慧生さんと共に母子3人の平穏な日々が始まったが、昭和32年、世にいう「天城山心中」によって、その生活も終止符を打たれる。
学習院大学在学中だった慧生さんが、彼女に恋する級友と共に天城山で命を絶ったのだが、その姉について嫮生さんはこう振り返る。
「賢くて、なんでも知っていて、バイオリンやピアノ、それに謡(うた)いもものすごく上手。そして部屋にこもって本を読むことの多い、どこか近寄りがたいところもあった姉でした。ある日突然あんなことになり、遺体が確認されたと聞いた時は膝がガクガク震え、しばらくの間言葉も出ませんでした。母はあまりのショックで起き上がることもできませんでした」
〈天城山で二人は散った〉
〈天国で結ぶ恋〉
2人の死は美化され、大々的に報じられたが、肉親が明かす「死」の真相はとてもそんなものではなかった。
「相手の方に迫られ、怖い思いをしていた」
常に姉に連れ添い、生涯にわたって姉夫婦の相談役となった浩さんの実妹・町田幹子(ことこ)さんがこう述懐する。
「あれは無理心中でした。当時、級友や関係者に数多く話を伺いましたが、慧生は相手の方に迫られ、怖い思いをしていたことがわかりました。死ぬ1カ月前、大学の文化祭に一緒に行った時、私の手を握ったまま一切離れなかったほどです。相手の方はピストルまで隠し持っていて、慧生にお付きあいを断られ、坊主頭になったり、鎌倉に座禅を組みに行ったことがあったらしいのです……」
嫮生さんもこう言う。
「姉は『級友』と天城山に向かう時、タクシーの運転手に最終のバスの時刻を聞いていたそうですし、遺体の状況からしても後ろから撃たれていたのではないかということでした。別の場所に薬莢(やっきょう)が落ちていたという点から見ても、ひょっとしたらそこで姉は殺されて『心中現場』に運ばれたという可能性もあると思うんです……」
〈天国で結ぶ恋〉とはあまりにかけ離れたものだったのである。
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