「ラストエンペラーの姪」はなぜ“青森県出身の青年”とピストル心中を遂げたのか…実妹が明かしていた“天国で結ぶ恋”の知られざる真相
第2回【こめかみを撃ち抜かれ、指にはエンゲージリングが…「ラストエンペラーの姪」が遂げた心中事件の真相 相手男性が悩んでいた“父親の問題”】
政略結婚、敗戦、逃避行、慧生さんの死……満州国皇帝の弟・愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)氏の一家は、常に激動と不運がついて回った。そんな中で成人し、結婚後に5人の子供を育て上げた次女・嫮生(こせい)さん。52歳だった1993年当時、その波乱の半世紀を静かに振り返っていた。
そこには嫮生さんの姉で皇帝の姪にあたる慧生(えいせい)さんと、青森県出身の大久保武道さんのピストル心中事件に対する証言も含まれている。果たして愛新覚羅家は、事件をどう見ていたのか。「デイリー新潮」が報じた、慧生さんの親友と武道さんの弟による証言と合わせて、昭和史に関心がある人には興味深い内容だろう。
(「週刊新潮」1993年1月7日号「『愛新覚羅家』次女が語る『天城山心中』」をもとに再構成しました。文中の年齢、役職等は掲載当時のままです)
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【写真】手向けられた花が切ない…2人がたどり着いた最後の場所
満州国崩壊から始まる一家の苦難
「日満を結ぶ橋」――満州国皇帝・溥儀の弟、溥傑氏と侯爵・嵯峨実勝(さねとう)氏の長女・嵯峨浩(ひろ)さん=当時24歳=が結婚したのは昭和12年4月のことである。日満親善の美名の下、関東軍の手による明らかな政略結婚だった。
その満州国も建国からわずか13年で歴史から幻のごとく消え去ったが、溥傑氏一家の苦難の歴史は、まさにそこからスタートした。
「私も当時は幼くて覚えていないことが多いんです。昭和15年に日本で生まれて、その後満州に渡ったものの、その頃の父の記憶というのは一切ございませんし、また新京を脱出した時のいきさつも覚えていないんです。ただ通化事件の時は、あまりに怖い思いをしたために、今でも鮮明に記憶に残っています」
わずか5歳で体験した満州国崩壊とその後の逃避行を、溥傑氏の次女・嫮生さんはこう語り出す。
日本の陸軍士官学校を卒業後、浩さんと結婚した溥傑氏は、昭和13年には長女の慧生さんを、そして2年後に嫮生さんをもうけ、満州国の首都・新京で軍務にあたりながら幸せな日々を送っていた。
日本兵が何人も上にかぶさってくれ
が、それも束の間。敗戦により、皇帝と溥傑氏は捕えられ、ソ連の捕虜収容所に送られる。一方、終戦前に長女・慧生さんは日本へ帰っていたものの、浩さんと嫮生さん母子は満州を逃げまどい、昭和21年2月3日、通化事件に遭遇する。
八路軍支配下の旧満州国通化省・通化で、日本人居留民が蜂起するが、八路軍の反撃により、数千人にも及ぶ日本人が殺された事件である。
嫮生さんが言う。
「それが昼だったか夜だったのかもわかりませんが、突然銃撃戦が起きて、私と母を守るために日本兵が何人も上にかぶさってくれました。でもその人たちがマトになってどんどん亡くなっていき、また皇帝の老乳母の手首が砲弾の破片で吹き飛ばされ、『痛い、痛い』と叫びながらその手で顔をいじり回し、顔中が真っ赤に染まっていたことを覚えています。間もなく(乳母は)亡くなりましたが、その時の恐ろしさは表現のしようもございません」
その後、吉林や延吉などで留置場生活を送り、同行していた皇帝夫人・婉容(えんよう)皇后はアヘン中毒に苦しみながら無惨な死を遂げる。
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