「本物はもの欲しそうな顔をしていない」…細川護熙さんが明かした「白洲正子」の言葉首相辞任後に届いた手紙の中身とは

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店に入った瞬間、「あ、これ買ったわ」

《昭和45(1970)年、護立氏が亡くなり、翌年には細川氏が参院選に出馬、当選する。しかし、細川氏が政治の道に入った後も正子との交流は続き、細川氏は折にふれて東京・町田の白洲邸「武相荘」を訪ねていた》

 祖父が亡くなると、さすがの正子さんも「とうとうトノサマも亡くなっちゃったわね」と淋しそうにしておられました。しかし、私と正子さんが本当に親しくおつき合いしたのは、実はこの頃から。

 私は参院議員を経て、昭和58(1983)年から熊本県知事になりましたが、知事時代に“県政を発展させるものは文化しかない”ということに気づき、以来、東京に行く度に正子さんとお会いするようになりました。ご一緒にお能にも行ったり、近江、飛騨、京都、湯布院など、あちこちお伴して歩きました。

 正子さんは旅の先々で骨董を買われたりしましたが、おもしろいのはその買い方。いつも即断即決でパッと決めて、パッと買われてしまう。迷いがないんです。でも、稀に私とほしい物が重なってしまうこともありました。

 滋賀の信楽町に行った際には、室町時代後期の口が欠けた壺に2人とも目をつけて。正子さんは店に入った瞬間、大きな壺を見て「あ、これ買ったわ」とおっしゃったんですが、私が「待った」と言ってね。ただ、正子さんは諦めるのも早い。「な~に、ほしいの。そんなに気に入ったなら譲ってあげるわよ」という具合で、その壺は私がいただきました。本当に度胸のいい買い物をなさる方だった。

「本物はもの欲しそうな顔をしていない」

 正子さんは自分の選んだものには絶対の自信を持っておられたけれど、中には「なんでこんな物を」と思うものもありました。あれは正子さんの晩年でしたが、粉引(こひき)の徳利をいたく気に入られたことがあって。古色(こしょく)がある、といえば、そうかもしれませんが、私から見れば古色がつきすぎていて、少し汚れすぎた徳利だった。でも、正子さんは他に持ってらした良い品をかなり処分してまでこの粉引を手に入れられたんですね。

《自分の直感を信じ、断固として譲らなかった正子。その正子が常に怒り、憤っていたのは、美しい国土をブルドーザーで蹂躙し、日本の文化を破壊していく“近代”だった》

 正子さんとはほとんど政治の話題についてお話ししたことはありませんでした。が、街づくりに関することは旅先などでもよく話題に上りましたよ。正子さんは、「熈ちゃん、知事や市長が上手に音頭を取れば、古き良き時代の空気がそのまま伝えられていくのよ。そうでないと、日本の街はどこに行っても本当に薄っぺらで見るに堪えないものになっちゃうわ」と言われていました。

 とにかく、正子さんが認めるのは“本物”だけ。そういえば、人間でも、焼き物でも、街の佇まいでも、「本物はもの欲しそうな顔をしていない」という言葉も何回か伺いました。

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