「これだけ勉強家で、努力家で、原稿を書ける人はいない」「渡辺さんを『偉大』とは言わない」 渡辺恒雄氏の知られざる素顔とは
「これだけ勉強家で、努力家で、原稿を書ける人はいない」
【前後編の後編/前編からの続き】共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
亡くなるまで主筆として読売新聞に君臨して社論を司り、政界にも絶大な影響力を及ぼし続ける。こんな人物はもう二度と現れないだろう。「ナベツネ」こと渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役。独裁者、ジャーナリスト――どちらが本当の顔だったのか。
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【写真を見る】90歳目前でも切れ味鋭い手紙を… 最後までジャーナリスト魂を見せた渡辺氏
前編【共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う】では、徴兵、入隊を経験後、共産党に入党するも除名され読売新聞に入社し、“独裁者”として君臨するに至った渡辺氏の足跡について、渡辺氏をよく知る人物らの証言を紹介した。
日経新聞元政治部長の岡崎守恭氏は、
「ナベツネさんが社長になった後、僕に“俺は日経の愛読者だ”と言ってきたことがあります」
と、振り返る。
「“政治は大体分かったから新たに経済の勉強をしている。日経の『やさしい経済学』を毎日読んでいる”と。『やさしい経済学』はやさしくないことで定評がある欄です。よその会社のトップで、これだけ勉強家で、努力家で、原稿を書ける人はいないでしょう。本当にすごい人だなと思いました」
「たかが選手が」発言の裏側
1996年からはプロ野球読売巨人軍のオーナーも務め、“球界のドン”としても存在感を示すようになった。その頃の渡辺氏といえば、次の発言を記憶している方も多かろう。2004年に球界再編が持ち上がった際、当時の選手会長、古田敦也選手がオーナー側との会談を望んでいる、と記者に水を向けられ、
「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」
などと言い放ったのだ。これが世論の反発を招き、プロ野球の1リーグ構想は頓挫することになった。
「渡辺さんは試合の勝ち負けにはこだわり、“負け試合を見せられるのは拷問だ”という人でしたが、野球の奥深さや細かなプレーの面白みにはさほど興味を持ってはいないようでした。そこでつい口を衝いて出たのが“たかが選手が”発言だったのでしょう」
そう話すのは、元読売新聞社会部長で、元巨人軍代表の山室寛之氏である。
「私が巨人の代表になった時、渡辺さんに“巨人の代表はあることないこと書かれるが、悪名は無名に勝るぞ”と言われたことがある。まさに渡辺さんは悪名を覚悟して再編問題の矢面に立ちながら、自らの失言によって1リーグ構想を立ち消えにさせてしまった。オーナー辞任後にある新聞は球界は風よけを失った、と書いた。的を射た表現だと思います」
「渡辺さんは最後まで言いたいことを言った」
04年8月に巨人のオーナーを退いた後も、主筆として読売の社論を取り仕切り、政界では「プレーヤー」であり続けた。07年には当時の福田康夫首相と小沢一郎・民主党代表の間を取り持ち、「大連立構想」を画策。結局、民主党側の反対で頓挫したものの、政界での影響力が衰えていなことを示したのだった。
目下、少数与党に陥った自民党の石破茂首相は苦しい政権運営を迫られている。しかし、渡辺氏亡き今、「大連立構想」のような荒業で事態を打開してくれるような救世主は見当たらないし、今後も現れることはないだろう。
渡辺氏と交流があったジャーナリストの田原総一朗氏が語る。
「渡辺さんは偉大なジャーナリストだったと思います。ジャーナリストは、総理大臣に対しても野党の党首に対しても、ガンガンものを言わなきゃいけない。多くの人は地位が上がってくると、その地位を守るために発言がだんだんと建前的になってくる。しかし渡辺さんはそうじゃなくて、最後まで言いたいことを言ったと思います」
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