共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
交渉の当事者となりながら、その裏舞台を記事に
61年ごろから行われた日韓国交正常化交渉を巡っては、交渉の当事者となりながら、その裏舞台を記事にする、という“離れ業”をやってのけている。キーマンとなったのは、韓国の朴正煕(パクチョンヒ)氏率いる軍事政権のナンバー2だった金鍾泌(キムジョンピル)氏だ。
「渡辺さんが金氏を伴睦さんに紹介したところ、意気投合。渡辺さんも随行し、まだ国交のない韓国を訪問するのです。そして当時の最高指導者だった朴正煕氏と伴睦さんが会談。朴氏は伴睦さんを料亭に招待して一晩中飲み明かし、最後は“一緒に泊まろう”とまで言ったそうです」(丹羽氏)
そうした中、渡辺氏は「大平・金合意メモ」と呼ばれるものの存在を知る。それは伴睦氏が訪韓する1カ月前に当時の外務大臣・大平正芳氏と金氏が交わした手書きメモで、日本が韓国に対して行う経済協力の額が記されていた。そうした内容を含む韓国との交渉の詳細を報じるスクープ記事が読売新聞1面トップに大きく掲載されたのは、62年12月15日。もちろん書いたのは渡辺氏だ。
〈外務省がやらないんだから俺らがやってやる〉
新聞記者がここまで外交交渉に関わってもいいのか――。そんな疑問に対し、先の『独占告白 渡辺恒雄』ではこう答えている。
〈みんなそう言ったね。だけど国交がないんだ。ないものを作ろうと、これはお互いの国益にプラスなんだ。ない国との国交を、外務省がやらないんだから俺らがやってやるということだ〉
『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)では次のように語っている。
〈僕は、新聞記者というものは権力の内部に入り政治権力がいかなるもので、どういうふうに動くのかを知らなければならないと思うんだ。中に入らなければ、事実は書けない〉
丹羽氏が言う。
「渡辺さんは権力に深く入り込んでしまい、いつの間にか自分が権力になってしまった。とはいえ、本質的にはジャーナリストだと思います。国家はかくあるべしという問題意識は常にお持ちになっていた。その原点には戦争体験があると思います。日本が再びどん底を味わわないように筆を使って権力を操った、と見るべきではないでしょうか」
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