共産党に入党するも除名され読売新聞に… 渡辺恒雄氏が“独裁者”として君臨するまでの道のりを追う
「自分で書いたわけでもないのに“あれは私が書きました”と」
「渡辺さんが伴睦さんの番記者になったのは、55年の保守合同前です。当時、伴睦さんは自由党の総務会長でした」
そう語るのは、『評伝 大野伴睦』の著者で拓殖大学政経学部教授の丹羽文生氏である。
「番記者になって間もない頃、渡辺さんは伴睦さんの話をオフレコだと断ったうえでデスクに報告したものの、翌日の紙面にその内容が載ってしまった。怒り狂う伴睦さんに対し、渡辺さんは自分で書いたわけでもないのに“あれは私が書きました。申し訳ございません”と謝罪したのです」
その裏で、元時事通信記者の伴睦氏の秘書が、“あれは渡辺が書いたものではない。にもかかわらず全ての責任を背負って謝罪に来た”と伴睦氏に耳打ちしていた。
「おそらく伴睦さんは渡辺さんの潔さにほれ込んだのでしょう。これを機に二人の距離は一気に近くなり、渡辺さんは毎日のように伴睦邸に通うようになるのです」(同)
渡辺氏が担ったのは、伴睦邸の案内係だった。
「伴睦邸には連日のように多くのお客さんが来るわけですが、客同士が顔を合わせることがないよう、二つある応接間にお客さんを通す役目を任されていたのです。また、伴睦さんはお客さんが帰ろうとする時、必ずその靴の向きを直す。それも渡辺さんが代わりに担うようになりました」(同)
“自分は記者だからカネはいりません。その代わりに情報を下さい”
こんな逸話もある。
「ある時、伴睦さんが渡辺さんに“カネで困ったことがあったら俺に言え”と言ったそうです。渡辺さんは“自分は記者だからカネはいりません。その代わりに情報を下さい”と返した。それ以来、伴睦さんはカネではなく情報を渡すようになった、ともいわれています」(丹羽氏)
とはいえ、伴睦氏から得た情報を次々と記事にしたわけではなく、
「渡辺さんはインタビューで“自分にとって最大の苦しみは、伴睦さんからもらった機密事項を特ダネにできなかったことだ”と語っています。おそらく伴睦さんを利用して記事を書こうとは思っておられなかったんじゃないかな。渡辺さんは8歳の時に父親を亡くしており、伴睦さんは父親のような存在だった、と渡辺さんは明かしています」(同)
政治の「プレーヤー」として
渡辺氏が政治記者として異質だったのは、時に政治の裏舞台を取材する立場を超え、「プレーヤー」として振る舞うことである。
例えば60年7月の自民党総裁選の際、岸信介氏からの支援を得る密約を結んでいた伴睦氏は、立候補を予定していた。
「そこで渡辺さんは密約が生きているか確認するため、岸さんのところへ行く。すると岸さんは“白さも白し富士の白雪”と答えたそうです。これは56年12月の総裁選に立候補した岸さんが伴睦さんに支援を求めた時、伴睦さんが岸さんに向かって言った言葉でした。つまり、密約は白紙、ということ。実際、支援する約束はほごにされました」(丹羽氏)
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