「思っている以上にウクライナは日本を評価していた」 前駐ウクライナ大使が明かす開戦時のリアルとゼレンスキーの卓越した能力
「“尻尾を巻いて逃げて…”ではなかった」
ただ、23年の1月から日本はG7の議長国を務めることになっていました。ウクライナは14年に起きたロシアのクリミア併合以来、国際的な支援を受けるために腐敗をなくす改革を進めていましたが、議長国の大使にはその改革をサポートする役割もあるのです。「汚職対策」の先頭に立つべき大使が「ポーランドに避難していまして……」では話になりませんから、私個人の思いとしてはキーウへ戻るのは「待ったなし」の状況でした。
現実には、いくつかの国から「帰ってくるのが遅い」と手厳しいことも言われました。ただ一方で、日本大使館は戦争勃発後、G7各国の中で最後までキーウに残って活動していたという事実もあるんです。これは小さな事実ではありますが「侵攻が始まるや、尻尾を巻いて逃げて……」というわけでは決してなかった。だから偉いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、ウクライナの中にはそれを評価してくださる方もいたということは、日本の名誉のために申し上げておきたいと思います。
〈G7の中で、文化的にも地理的にもウクライナと最も距離がある日本。岸田文雄前首相が繰り返した「今日のウクライナは明日の東アジア」というフレーズには、両国の間に横たわる「距離」を克服したいという思惑もあったのかもしれない。
しかし、一方でいくら両国の距離が縮まろうと、平和憲法に縛られた日本には「カネしか出せない」との批判もあるところ。日本のこのような「特異体質」をウクライナ側はどう考えていたのだろうか。〉
日本人が思っている以上にウクライナで高い評価
先ほど「地理的な距離」と「心理的な距離」の話をしましたが、これは逆もしかりなんです。つまり、心理的な距離が縮まれば地理的な距離は克服できることがある。
確かに今回の戦争があるまでウクライナにとっても日本はあまたある「外国」の一つに過ぎなかった。ところが、そんな「one of them」でしかなかった日本が、開戦後、いの一番に「法の支配に基づく国際秩序を一方的に武力で蔑ろにした」とロシアを断罪したわけです。開戦直後、ヨーロッパでは依然として「旧ソ連の内輪もめ」「単なる領土紛争」と事実を矮小化する声もあった。そんな中、遠く離れた日本から突然上がった「今日のウクライナは明日の東アジア」という連帯の声は日本人が思っている以上にウクライナで高い評価がなされていました。日本では、湾岸戦争の頃にあった「カネは出すが血は流さない」という批判がトラウマのように染みついていますが、少なくとも私の在任中、ウクライナでそのようなことを言われた経験は一度もありません。
「日本にしかできないこと」とは?
「支援」と一口にいっても軍事支援、財政支援、人道支援、さらには有事後の復旧・復興支援とさまざまなチャンネルがあります。軍事支援も、最初の頃は「とにかく武器、弾薬」なんですが、次第に国内の軍需産業の基盤が整ってくると「工作機械の方がありがたい」と需要の中身がシフトしていく。また財政支援も「自国の景気が悪いのに他国にカネを渡すのか」と批判されがちですが、実はかなりの部分はローンなんです。つまり返済してもらうことが前提になっています。
多様な支援のチャンネルの中で、まずはウクライナのニーズを確定する。そして、それに合わせて国際社会が「ウチはこれが出せる」「アンタの国はこれを出して」とそれぞれの国力やウクライナとの関係を踏まえて調整を行うわけです。
そのうえで、日本がウクライナから今後もっとも期待され、かつ、日本にしかできないことがあるとすれば、それは「経験の伝授」ということになると思います。
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