「思っている以上にウクライナは日本を評価していた」 前駐ウクライナ大使が明かす開戦時のリアルとゼレンスキーの卓越した能力
陸・海・空、さらにはサイバー空間を舞台に総力戦が展開され、両軍で100万人以上が死傷したといわれるロシアのウクライナ侵攻。海の向こうでは何が起こっていたのか。10月に退任した前駐ウクライナ大使に聞いた戦時下の緊迫、指導者の横顔、そして終戦への道筋。【松田邦紀/前駐ウクライナ大使】
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あの日、私はなんだか胸騒ぎがして、いつもより早い午前4時に目が覚めました。ほどなくして公邸の2階の窓から、まだ明けきらない夜空をミサイルの光線が切り裂いていくのが見えた。
「ついに始まってしまった……」
私はすぐさまウクライナの国防省や内務省の幹部と連絡を取り、最後まで現地に残っていた4人の大使館員を公邸に集めました。
〈あの日――。2022年2月24日の未明、ロシアのプーチン大統領がウクライナ東部への「特別軍事作戦」の開始を宣言し、戦争の火ぶたが切られた。首都・キーウの大使公邸で開戦を迎えた前ウクライナ大使の松田邦紀氏(65)は、この戦争を最も近い場所で目にした日本人の一人だろう。
長きにわたる「平和」で、戦争がすっかり非現実のものとなった日本では、海の向こうの有事はともすれば他人事である。開戦前後のウクライナでは、一体何が起こっていたのか。まずはその現実を松田氏に振り返ってもらおう。〉
開戦後にどのような仕事をしていたのか
開戦の直前まで、ロシアウォッチャーや学者の中には「戦争に突入することはない」という見方も根強く存在していました。いかにプーチンの独裁といっても、ロシアは一応、国連安保理の常任理事国なのだから、というわけです。しかし現場にいた感覚でいうと、22年の年明け以降は「今日か明日か」という感じで、いつロシアが攻め込んでもおかしくないという緊張感がありました。
私たちはウクライナ政府や軍関係者から寄せられる情報を総合して、侵攻が始まる前に大使館員の家族を日本に帰国させ、大使館の規模もかなり小さく絞っていました。非常時には人間が少ないほうが動きやすいですからね。
私以下、キーウに残ったメンバーは開戦後も大使館で邦人保護や避難の支援、それからゼレンスキー大統領ら政権幹部の安否情報の収集といった業務に当たりました。そうして仕事が一段落した3月の初め、キーウの大使館を閉めてポーランドに脱出したのです。
開戦直後のキーウの街は普段通りに車やバスが走り、犬を散歩させる人もいる。間違いなく戦時中なのですが、人々の日常が続いていることに、映画を見ているような錯覚も覚えました。
「これ以上遅かったらマズかった」
ポーランドで事務所を開いたのは、南東部にあるジェシュフという国境に近い街。当時は主要7カ国(G7)の大使館や国連機関、ウクライナの関係者も近くにたくさんいましたから、大使館業務に支障が出るということはあまりなかったように思います。
ただ、4月に入ってロシア軍がキーウから完全に撤退すると一時退避していた外交団は続々とキーウに戻っていった。5月の終わりごろにはG7の中でキーウに戻っていないのは日本だけという状況でした。G7の大使が集まって会合をしていても私だけがオンライン参加。回線が途中で切れることもあり、肩身の狭い思いをすることは一度や二度ではありませんでした。
私たちがキーウに戻ったのは一時退避から約7カ月が経過した22年10月になってから。戻るのが早ければ早いほどよいというわけではありませんが、「これ以上遅かったらマズかった」というギリギリのタイミングだったのは事実です。
「地理的な距離は心理的な距離を生む」と言われる通り、現地にいわれわれと日本政府との間で危険度の評価に差が出るのは仕方のないことです。私は政府の判断を責めるつもりはありません。
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