佐々木朗希もメジャー挑戦へ 第1号のイチロー、史上最高額のダルビッシュ…「大型契約」の“ポスティング移籍史”を振り返る
ロッテ・佐々木朗希が12月9日、ポスティングの申請手続きを行い、メジャーとの交渉を開始した。これまでこの制度を利用してメジャーに移籍した選手は、第1号のイチローから今年1月にレイズとマイナー契約した上沢直之まで計25人に及ぶ。日本人選手の四半世紀にわたるポスティング移籍の歴史を振り返ってみよう(日本円は当時のレートで換算)。【久保田龍雄/ライター】
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ポスティング制度創設の道を拓いた「野茂英雄」
ポスティング移籍第1号のイチローは、オリックス時代の2000年、前人未到の7年連続首位打者を達成すると、次なる目標をメジャーに定め、「自分の年齢(27歳)や肉体的な問題を考えれば、できるだけ早く行ければいいと思っていた」とポスティング(入札)制度によるメジャー挑戦を決意した。
同制度は、1995年に野茂英雄が近鉄を任意引退という形で強行退団し、ドジャースと契約したことがきっかけで、98年に調印された「日米間選手契約に関する協定」により創設された。これにより、イチローも所属球団・オリックスの承認を得れば、2001年のFA権取得を待たずにメジャー移籍が可能になった。当初はイチローがもう1年日本でプレーすることを望んでいた球団側も、本人の強い気持ちを汲み、最終的に移籍を容認する。
15球団が入札したといわれるポスティングは11月8日に締め切られ、マリナーズが移籍金にあたる最高入札額の1312万5000ドル(約14億4400万円)で落札。オリックス側も受諾した。
この時点では落札球団名が伏せられていたため、「どこにでも行く」と語っていたイチローだが、その後、マリナーズと判明すると、「(昨年)春のキャンプに参加して親しみもあり、意中の球団のひとつでした」とホッとした表情を見せた。
日本人野手初のメジャーリーガーは翌01年、打率.350で首位打者、56盗塁で盗塁王、シーズンMVP、新人王に輝き、“世界のイチロー”へ大きな第一歩を踏み出した。
落札額はイチローの約4倍だった“怪物”
イチローの落札額を大幅に更新したのが、2006年オフの松坂大輔である。1999年に西武入団後、最多勝3度、最優秀防御率2度、最多奪三振4度、2001年には沢村賞と文句なしの実績を残した松坂は、06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも3勝0敗で日本代表チームの世界一に貢献し、MVPに選ばれていた。
松坂自身も西武が日本一になった04年オフにメジャー移籍を球団に直訴し、「周囲が認める成績を出したら」と条件付きの容認を得たが、その後、会社の赤字経営を建て直すためにも、“チームの顔”松坂は必要不可欠と方針が変わり、2年待つことになった。
そして06年オフ、「松坂は日本球界の宝。彼の夢を実現させてあげたい」(太田秀和球団社長)と晴れて球団の容認を得た“平成の怪物”は「小さいころから思っていた舞台に手が届くところまできた」と喜びをあらわにした。
11月15日、レッドソックスがイチローの約4倍にあたる5111万1111ドル(約60億円)で落札したことが明らかになると、松坂は「(入札申請をした)11月1日にスタートラインに立ったと言ったけど、あのときまだ立ってなかった。今がようやく第一歩」と金額の重みを噛みしめていた。
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