「NHKは一銭も出してくれない」美川憲一の“紅白ド派手衣装”は「自腹」だった! 衝撃のお値段を本人が明かす

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 今や「国民的歌番組」の称号も形ばかりとなった紅白歌合戦。しかし、かつてこの番組には視聴率が70%を切るだけで「大事件」と言われた時代があった。昭和から平成にかけての“紅白黄金時代”を彩ったレジェンドの一人、美川憲一がその熱狂を述懐する。

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「最初から派手な衣装にこだわっていたわけじゃない」

 私が最後に紅白歌合戦に出場したのは2009年。もう15年も前のことなのに、今でもステージに立つとお客さまから「紅白見てますよ」って声をかけられることがあるのよ。現にいまだにこうして紅白のことで取材を受けるんだから、あの番組の影響力はまだまだ健在みたいね。

 紅白での私のイメージといえば「豪華衣装」でしょうけど、何も最初から派手な衣装にこだわっていたわけじゃないのよ。

 初出場は1968年で、「柳ヶ瀬ブルース」「新潟ブルース」「釧路の夜」と3曲ヒットを飛ばしてようやくかなった出場だった。でも、その頃の私は「笑わない」「しゃべらない」「動かない」というお堅い“スターの仮面”をかぶっていたの。それが今の「地でいくスタイル」に変わったのは、やっぱり紅白の落選を経験したからかしら。

 紅白の舞台には初出場から7年連続で立たせていただいたけど、その後落選。表向きは「あ、そう」とドライにしてたけど、本当にショックで悔しくて。絶対に這い上がってやるという思いがあった一方で、当時の紅白には一度落選したら二度と出られないという雰囲気もあった。だから「諦めなきゃ」なんて葛藤もしたわね。

“どん底”だった16年間

 いろいろあって、再出場を果たすまで17年もかかったけど、その間は本当にどん底だった。地方のキャバレーで営業していたときに酔客に「紅白にも出てないくせに」と絡まれたこともあったし、灰皿が飛んできたこともあった。もちろん、投げ返してやったけれどね。

 それでも「絶対に見返してやる」という気持ちで歌い続けて、紅白再出場がかなったのが91年のことだった。それが「歌がヒットしたから」ではなく「話題があったから」だっていうのは自分でも分かっていたわ。

 当時、コロッケがやってくれた私のモノマネが話題になって。モノマネ番組の「ご本人登場」という今でこそ「あるある」な演出も、コロッケと私のコンビが最初だったのよ。そのブームを受けて作られた「タンスにゴン」のCMの「もっと端っこ歩きなさいよォ」というせりふは流行語にもなった。それでコロッケと紅白にまで呼ばれたってわけ。

小林幸子の衣装を見て……

 ちょうどその頃よ。さっちゃん(小林幸子)が豪華衣装で紅白のステージに立ち始めたのは。彼女の派手になってきた衣装を見てNHKに「白組では私がやります」って立候補したの。

 もともと豪華な衣装は好きだったのよ。74年に7回目の出場をしたとき、カラスの羽根をあしらったタキシードに大きなエメラルドの指輪をつけてステージに立ったの。そしたらある時、かわいがってくださっていた美空ひばりさんに楽屋に呼ばれてね。「憲ちゃん、いいエメラルド買ったんだって? ちょっと見せなさいよ」って。私が指輪を見せたらひばりさんは「あらぁ、私負けたわ」。そんなこともあったから、当時の白組でさっちゃんに太刀打ちできそうなのは私くらいという自負があった。

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