手塚治虫に森高千里、「24時間テレビ」のシンボルマークまで…日本に「アニメーション」を定着させた「久里洋二さん」の偉業を担当編集者が追悼

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手塚治虫との関係

 打ち合わせの際、「『自伝』は180頁ほどの本になりそうですが、ページ下の隅に、フリップ・アニメーション(パラパラ漫画)を載せられないでしょうか」とお願いしてみました。すると、「アニメーションは1秒24コマ。180頁の本だと、右左、片方ずつめくるから、1本が90頁で90コマ。ということは、3秒ちょっとのアニメーションを2本だね。OK」。計算は瞬時でした。後日、アッという間に仕上げてくださいました。繰り返し述べますが、このとき、久里さんは83歳です。

「アニメーション」なることばを定着させたのは、久里洋二さんです。それまでは「漫画映画」でした。1960年に、真鍋博さん、柳原良平さんと「アニメーション3人の会」を結成し、大人のための”アート・アニメーション“を定着させようと、草月会館で新作発表会を連続開催します。

 そこへ“立ち塞がった”のが、同年生まれの(当時は3歳年上と称していた)手塚治虫さんの『鉄腕アトム』でした。実は、手塚さんも発表会に参加し、アート作品『しずく』を発表したのですが……。

〈誰もいないロビーの階段の下で、手塚君は突然「久里君、僕は子供アニメを作ることにする。だけど久里君は子供のアニメは作らないでくれないか」と言った。一種の住み分けみたいな提案だった。〉
〈手塚君の『鉄腕アトム』で、子供漫画のアニメの時代がやってきた。アニメ評論家は「子供アニメ」を対象に語り、新聞も、ああいうのがアニメだと思っている。〉

 それでも久里さんは、1985年、第1回広島国際アニメーションフェスティバル(当時の名称)で日本代表審査員をつとめた際、ほかの審査員が反対した手塚作品『おんぼろフィルム』を徹底的に推し、グランプリに導くのです。

 若き日の久里さんは、多くの文化人と交流していました。オノ・ヨーコ、永六輔、石井好子、デヴィ夫人……。三宅一生の、パリにおける初めてのファッションショーで、久里さんのアニメーションが上映されることになりました。会場はモンパルナスの「ラ・クーポール」。ピカソやマチスが通っていた高級カフェです。

〈確か『人間動物園』か『LOVE』だったと思う。美しい貴婦人たち、正装した紳士たちが入ってくる。旅行姿の僕は気がひけて、会場の一番後ろで立って見ることにした。〉
〈僕のアニメで、貴婦人や紳士たちがドドッと大笑い。初めて和んで親近感が生まれた。その後のショーは日本人の智と和が重なって、大成功だった。僕もとっても嬉しかった。三宅さんも大喜びで多くの紳士淑女から握手を求められていた。〉

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