「落語ができなくなったら生きていてもしょうがない」 隠れた実力者「立川ぜん馬さん」の芸を磨き続けた人生
唯一無二の落語家と称賛された立川談志さんが亡くなったのは2011年。その初期の弟子である立川ぜん馬さんは、師匠の江戸落語を継承していると高く評価されてきた重鎮である。
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落語立川流の顧問を務めていた作家の吉川潮さんは振り返る。
「ちゃんとしている、というのは師匠からのほめ言葉ですが、芸も人柄も信用し、安心して認めていました。温厚で毒気がなかった」
落語評論家の広瀬和生さんも言う。
「門下で傑出した才能の持ち主でした。長尺の演目でも自然に引き込んでいく。落語とは何かと談志師匠が考え抜いて変化を遂げていく一方、ぜん馬さんは古典は根幹と芸を磨き続けた」
「ずばぬけた話芸があるのに偉そうにしない」
1948年、東京の世田谷生まれ。本名は三須秀海(みすひでみ)。談志さんより12歳年下だ。明治大学文学部に進み、71年に入門。82年に六代目立川ぜん馬を襲名して真打ちに昇進した。
長く親交があり、落語家として立川毒まむ志の名も持つ毒蝮三太夫さんは言う。
「真面目でいい男。前座の頃から全然変わらない。女にももてた。ずばぬけた話芸があるのに偉そうにしない。むしろ地味に見えた」
83年、談志さんは真打ち昇進の考査基準をめぐり落語協会に異を唱えて脱会、落語立川流を創設。寄席の定席に出演できなくなる。
当時、ぜん馬さんは、三遊亭楽太郎(後の六代目三遊亭円楽)、春風亭小朝とともに落語界の次世代を担う逸材と評価されていた。
「落語協会を離れて保守本流の落語界から外れますが、奇をてらうことも、古典をデフォルメすることもありませんでした」(広瀬さん)
立川流の実力者といえば、志の輔、志らく、談春の名がまず挙がり、ぜん馬さんは埋もれがちになる。
「古典を変えるより、もっとうまくならなければと恬淡としていた」(広瀬さん)
率直な人でもあった。
「師匠の家で新年会をしていた時、酔ったぜん馬さんが師匠の目の前で“夢金はおれの方がうまい”と言い、周囲が固まったことがあります」(吉川さん)
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