「どうして女子アナに…」とぼやかれた元NHKアナ 「理想の娘」になれなかったと明かす二人が語った「家族」【秋吉久美子×下重暁子】

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 今年、同時に古希と米寿を迎えた、女優・秋吉久美子さん(70歳)と、作家・下重暁子さん(88歳)。昭和の時代から第一線で活躍してきた二人が「家族」について語り合う『母を葬(おく)る』(新潮新書)が刊行された。

 何十年も前に看取った母といまだ訣別(けつべつ)できておらず、その根っこの部分には「理想の娘」になれなかったことが影を落としているというが――。(以下「週刊新潮」11月28日号より転載【全3回の第2回(第1回/第2回/第3回)】

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「アナウンサーの仕事なんて…」とぼやいたテレビ嫌いの祖母

秋吉 下重さんはペンをしっかりと握ってご自身の意見を発信してきましたよね。

 私はといえば職業柄、自分の主義主張をアピールする立場にはないし、そもそもアメリカ発のヒッピー文化に強い影響を受けたノンポリでもありますが、専業主婦だったうちの母がおそらく「隠れフェミニスト」だったの。
 
 家庭の事情で上の学校には進めなかったけれど、社会問題や政治への関心が高くて、市川房枝さんにも憧れていたみたいなんです。看護師として働いていた結核病棟で入院患者の父と出会い、19歳で結婚しました。

下重 それはドラマチック! 私の祖母は雪深い上越の地で福祉に尽力した人でしたが、大のテレビ嫌いでね。「暁子はどうしてアナウンサーの仕事なんてしているのかしら。学者か医者になればいいのに」ってずっと不満げだったそうです。そんな祖母を誰よりもリスペクトしていたのがうちの母。

秋吉 それじゃ、お母さまも下重さんがテレビに出るのは歓迎していなかった?

下重 内心複雑な思いはあったかも。ただ、私の性格を熟知していた母は進路について反対するようなことはけっしてありませんでした。何か口出ししようものなら、私が烈火のごとく怒って猛反発するはずだと分かっていたんです。

母は「女優業」に落胆?

秋吉 どうも、うちの母も私に女優にはなってほしくなかったようなんです。

 20代の頃、出演した映画2本が同時期に公開されたのだけど、母は1本しか観ていないというの。「どうして2本とも観ないの?」って何気なく聞いたら、「私たちには、私たちの暮らしがあるから」って答えた。どこか突き放すような物言いで内心けっこう傷つきました。

下重 娘の演技を大スクリーンで観るのが気恥ずかしかったのでは?

秋吉 そういうタイプでもなかったのです。自分で言うのもおこがましいけど、私は小さい頃から聞き分けがよくてお勉強もよくできる優等生でした。母にとって自慢の娘であり、自分がかなえられなかった社会活躍を代行してくれるはずの存在だったと思うんです。これって娘を介した一種の「生き直し」ですよね。

 ところが現実の私はフェミニズムの闘士になるどころか女優として「社会の慰み者」のような役割を担った――つまり私は「母を裏切った」のだと感じています。

下重 それでは、お母さまからは「理想の娘」像を押し付けられた?

秋吉 それが、実際にはその真逆なの。下重さんのお母さまと同様、何でも自由にさせてくれましたし、物心つく頃からけんかした記憶すらありません。厚い信頼関係で結ばれた親友同士のような母娘関係でした。

下重 いわゆる「毒親」とは相いれない存在だったわけですね。

秋吉 私が幼稚園に通っていた頃、母は呼び出しを受けたんです。

下重 呼び出し?

秋吉 ドキッとしますよね。どうしたんだろう? 何かトラブルでもあったのかしら? って不安な気持ちで出かけると「どうしたら久美子ちゃんのように良い子になるんでしょうか」って先生から相談を受けたんですって。

下重 まったく人騒がせですね!(苦笑)

秋吉 ねえ(笑)。でも、当時20代半ばだった母は喜びにあふれ、年端もいかない私に絶対の信頼を置くようになったというの。

下重 うちの母も、見返りを求めない愛情を注いでくれました。結果的に、私はワガママ娘になる英才教育を受けるような格好で育ったわけですが……。

「父親の壁」にぶち当たる

秋吉 反抗期はなかったのですか?

下重 もちろん激しかったですよ(笑)。私が真っ先に反抗した相手は戦時中に陸軍将校をしていた父です。日本が戦争に負けた直後、GHQの公職追放の対象になって食い扶持を失うと同時に、それまで自分が「正しい」と信じてきた価値判断の基準が根底からひっくり返されて、茫然自失の状態だったと思います。そこへ、娘の私まで大反発したわけ。

秋吉 敗戦時、下重さんは9歳くらいだったのですよね。

下重 うん。結核の療養で部屋に引きこもって本ばかり読んでいたから早熟だったのね。「天皇陛下バンザイ」から「米国バンザイ」へ、「全体主義」から「民主主義」へ……一夜にしてイデオロギーが塗り替えられるのを目の当たりにして、私は大人たちの言うことをいっさい信じなくなりました。

秋吉 うちの父は兵隊にとられる直前に終戦を迎えました。北海道大学の学生でした。下重さんがおっしゃったように、敗戦を機に日本人の価値観がガラッと切り替わったわけですが、その狭間でずっとオロオロし続けた。思春期を迎えた私はそんな父を軽蔑し猛反発したの。一触即発の状態になり、母や妹の肝を冷やしたこともありました。

下重 お父さまのどんなところが嫌だったの?

秋吉 気分一つで激高してわめき散らしたりする。まるで駄々をこねる子どもでした。つねに自己矛盾を抱えていましたが、その原因の一つには敗戦のトラウマがあったはず。ピュアで繊細な人でしたから、本人にもその自覚はあったと思います。

下重 私の父はもともと画家志望だったのに、長男のため家を継いで軍人に。ですが、戦後しばらくたって公職追放が解除されると、軍人時代の仲間と再びつるんで、かつてのような価値観で話をするようになったんです。私はこれが本当に許せなかった。

セーラー服姿で、母に“お説教”

秋吉 私たち、戦後の日本社会への不信感や怒りをいちばん身近にあった権力=父親にぶつけていたのかもしれないですね。今思うと随分かわいそうなことをしました。

下重 その通りだと思いますよ。私の場合は、そんな父にくっついて家族のために尽くし続ける母に対しても反発を強めました。中学生のときに母を目の前に座らせて“お説教”したんです。

「私は自分で自分の生きる道を選んで、自分で食べていきます」「私に構わず、お母さんも自分だけの人生を歩いてください」って。

秋吉 セーラー服姿で?

下重 ええ。何かにつけて世話を焼こうとするのがうっとうしかったのもあるけど、家族のために自分を犠牲にしないでほしかった。母は頭が良くて肝が据わっていたので、社会に出れば活躍していたでしょう。もったいない、ふがいないと思っていた。照れ臭くってそんなことは言えず表面上は怒ってばかり、いつまでたってもかわいげのない娘でした。

秋吉 それって愛情の裏返しでもありますよね。下重さんの気持ち、お母さまには届いていたと思います。

(第3回に続く)

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 第1回【「妊娠を隠して1日20時間撮影」「こげ茶色のオシッコが…」“卵で産みたい”発言は、働く女性の葛藤を伝えたかった【秋吉久美子×下重暁子】】では、大々的に報道された秋吉さんの発言の真意など、男性と肩を並べて仕事にまい進してきた二人の今にも増して複雑だった「女性の葛藤」について振り返り語ってもらった。

 また、第3回【「死んだらどうなるの?」末期がんの母に応えられなかった後悔――いまだに「葬れない」と感じてしまう「娘側の本音」とは【秋吉久美子×下重暁子】】では、看取ってから年月が過ぎた今も「母が本当に死ぬのは、自分が死ぬ時」と語る真意などについて明かしてもらった。

秋吉久美子(あきよし・くみこ)
1954年生まれ。1972年、映画「旅の重さ」でデビュー後、「赤ちょうちん」「異人たちとの夏」「深い河」など出演作多数。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修了。

下重暁子(しもじゅう・あきこ)
1936年生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。民放キャスターを経て文筆業に。著書に『家族という病』『極上の孤独』など多数。

デイリー新潮編集部

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