スポーツ紙で“ナベツネ”の呼び名が使われなくなった事情…人情家の一面もあった「渡辺恒雄さん」の素顔

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「おれも政治記者だったから、何もしゃべらず帰る気になれない」

 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、巨人オーナー、球団会長としてプロ野球界全体に権勢を振るった渡辺恒雄氏が12月19日に98歳で“大往生”した。独裁者とも呼ばれた渡辺氏の素顔とは──。

 渡辺氏とスポーツ界との関わりは広かった。1991年に読売新聞社社長に就任すると、同年に大相撲の横綱審議委員入り(2005年までの15年間)。1993年のサッカーJリーグ発足時には、三浦知良、ラモス瑠偉らスターを擁するヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の親会社の社長として、チーム名に企業名の「読売」を冠することを主張。地域密着を掲げ、「ホームタウン名+愛称」で統一することを求めたJリーグの初代チェアマン・川淵三郎氏とは、マスコミを介する形で激しい応酬を繰り広げた。巨人のオーナーの座に就いたのは1996年からだが、それ以前から隠然たる影響力を持っていたことは周知の事実で、1993年の長嶋茂雄氏の13年ぶり監督復帰を主導したといわれている。

 そもそも、政治記者時代に中曽根康弘元首相をはじめ政界有力者との間に強固な人脈を築き、『閣僚名簿は事実上、渡辺恒雄が作っている』とまで噂された渡辺氏。だから、渡辺氏の立ち寄り先に、プロ野球担当記者とJリーグ担当記者の両方が張り込んで先陣を争い、さらに政治部記者も様子をうかがうというカオスな状況を呈した時期もあった。一方で相撲担当記者への対応だけはおおよそ、毎場所千秋楽翌日に開催される横綱審議委員会後に限られていた。

「人情家の一面もありました。1990年代から2000年代にかけて、プロ野球界や巨人に何かが起これば、記者たちは日中のみならず、渡辺氏が夕食を取ることの多い都内ホテル内の高級和食店の前に張り込みました。そして、会食後にほろ酔い加減で現れる渡辺氏を囲むのです。そこで渡辺氏は、巨人の監督人事、采配批評、補強戦略からNPBコミッショナー、野球日本代表の監督人事に至るまで、さまざまな事柄に関してヒントをくれました。時には『あの外国人選手は全然使えないじゃないか。獲ってきたヤツを含めて責任を取らせる』などと過激な発言が飛び出し、スポーツ紙の1面を飾ることもありました。それでも、『あれは酔った上での発言だから』と言い訳をしたことは、私が記憶する限り1度もないですし、実は裏口もあったのに、そちらから逃げたこともありませんでした。『俺も政治記者時代、腹をすかせながら取材対象の会食先の前に張り込んでいた。君たちの気持ちはよくわかるから、何もしゃべらずに帰る気になれない』と語ったことがありました」(元巨人担当記者)

野球自体には興味なし「右打者はなぜ打った後、三塁へ走らないのか」

 巨人のオーナーに就任するまで、実は野球をやったこともなければ、興味もなかったと公言していた。

「オーナーに就任してから何年もたった頃、野球に詳しい部下に対して『おい、どうして右バッターは打った後、三塁に走らないのか? そっちの方が近いだろう』と真顔で聞いたことがあったそうです。その程度の認識の人に、クビだ何だと言われる巨人のフロントや選手はかわいそうだ、と思ったこともあります。ただし、“プロ野球界の憲法”といわれる野球協約は、条文を暗記するほど読み込み、球団経営や選手との契約などに関する取り決めについては誰よりも精通していました」(読売グループ関係者)

 野球というスポーツ自体に対する造詣が深かったとはいえなかったが、巨人の勝利には“無邪気”と表現したくなるほどこだわった。

「西武からFAで獲得した清原和博氏が1999年に故障続きで、わずか13本塁打に終わると、失望した渡辺氏は、翌2000年に清原氏が肉離れで戦列を離れた際、報道陣の前で『これで勝利要因が増えた』と“暴言”を吐きました。ところが、清原氏が同年の後半に活躍し巨人が日本一になると、手のひらを返して絶賛。また、2013年に田中将大投手が巨人を破っての日本シリーズ制覇を手土産にポスティングシステムでメジャーに移籍することが決まると、日本のプロ野球の空洞化を嘆くかと思いきや、『そうすると、来年の日本シリーズはだいぶ楽になる』と言っていました」(スポーツ紙デスク)

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