渡辺恒雄氏の「たかが選手が」発言の意図はなんだったのか 「独裁者」であり「偉大なジャーナリスト」…二つの顔に迫る

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取材する立場を超え、「プレーヤー」に

 亡くなるまで主筆として読売新聞に君臨して社論を司り、政界にも絶大な影響力を及ぼし続ける。こんな人物はもう二度と現れないだろう。「ナベツネ」こと渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役。独裁者、ジャーナリスト――どちらが本当の顔だったのか。

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 自民党の大物議員、大野伴睦氏の寵愛を受けた渡辺氏。彼が政治記者として異質だったのは、時に政治の舞台裏を取材する立場を超え、「プレーヤー」として振る舞ったことである。

 1961年ごろから行われた日韓国交正常化交渉を巡っては、交渉の当事者となりながら、その舞台裏を記事にする、という“離れ業”をやってのけている。キーマンとなったのは、韓国の朴正煕(パクチョンヒ)氏率いる軍事政権のナンバー2だった金鍾泌(キムジョンピル)氏だ。

『評伝 大野伴睦』の著者で拓殖大学政経学部教授の丹羽文生氏が言う。

「渡辺さんが金氏を伴睦さんに紹介したところ、意気投合。渡辺さんも随行し、まだ国交のない韓国を訪問するのです。そして当時の最高指導者だった朴正煕氏と伴睦さんが会談。朴氏は伴睦さんを料亭に招待して一晩中飲み明かし、最後は“一緒に泊まろう”とまで言ったそうです」

 そうした中、渡辺氏は「大平・金合意メモ」と呼ばれるものの存在を知る。それは伴睦氏が訪韓する1カ月前に当時の外務大臣・大平正芳氏と金氏が交わした手書きメモで、日本が韓国に対して行う経済協力の額が記されていた。そうした内容を含む韓国との交渉の詳細を報じるスクープ記事が読売新聞1面トップに大きく掲載されたのは、62年12月15日。もちろん書いたのは渡辺氏だ。

「許し難いような違和感」

 こうした振る舞いに関して、新聞記者がプレーヤーとして政治の裏に関わってよいのか、と批判されることもしばしばだった。元読売新聞記者でジャーナリストの大谷昭宏氏は、渡辺氏の権力との近さについて、こう語る。

「当初は新聞記者の正義感で動いていたと思います。しかし権力の中に入っていって、次の総理はこれにしようかって考えるうちに、やっぱりジャーナリストではなくプレーヤーのほうが権力の醍醐味を味わえる、と渡辺さん自身が変節していったのではないでしょうか。私自身は、それには許し難いような違和感を持っています」

 それゆえ、

「私は渡辺さんを『偉大』とは言わないわけです。巨大な政治記者、あるいは巨魁だったかもしれない、と思うのです」(同)

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