「マイティ井上さん」が語っていた盟友「アンドレ・ザ・ジャイアント」秘話…「俺とホーガンの試合はストーンズより客を呼んだんだ」

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「アイツもプロレスが大好きやったんやな」

「えっ!? アンドレだ!」

 1979年7月20日、国際プロレス・秋田県大館市民体育館大会にて、ラッシャー木村の持つIWA世界ヘビー級選手権に挑戦し、会場を盛り上げたアンドレ。それは、彼が新日本プロレスの常連外国人になって5年目のことだった。

 1974年から、WWF(現WWE)と提携関係にあった新日本プロレスを主戦場としたアンドレだが、数少ないオフの期間と国際プロレスのスケジュールを見比べては、新日本プロレスとWWFに頼み込み、国際のリングに駆けつけた。特別参戦という形ながら、1974年と1979年の2回、国際に“里帰り”している。

「『お前、WWFとか新日に上がってるのに、大丈夫なんか。ギャラだって安いだろう』って聞いたら、『俺が好きで行くんだから、いいじゃないか』って。その時も僕に連絡が来て、国際に上げることになったんですよ」

 既に新日本プロレスで猪木、坂口にシングルでフォール勝ちしていたアンドレ。上記のラッシャー木村戦は両者リングアウトの引き分け、翌日おこなわれた、当時、IWA世界タッグ王者の井上、アニマル浜口との一戦(ノンタイトル)は、井上がヘイスタック・カルホーンから3カウントを奪っている。

 実は新日本に来日していた時期もプライベートではよく会っていた井上とアンドレだったが、1990年より、アンドレが井上のいる全日本プロレスを主戦場にすることで交流が本格的に復活。1987年3月29日、アメリカはミシガンのシルバー・ドームでおこなわれたハルク・ホーガンとの一戦に、9万3173人を動員したことを、よく自慢していたという。確かにこの記録は、2010年に破られるまで、屋内スポーツイベントの世界最多動員記録を誇っていた。

「『俺とホーガンの試合は、ローリング・ストーンズより客を呼んだんだぜ!』とよく得意げに言うとったわ」

「そういえば、その試合で、アンドレさんは初のフォール負けをしちゃうんですよね」と筆者が言うと、電話の向こうで「えっ!? そうなの!?」と言いながら、井上はこう続けた。

「アイツも本当に、プロレスが大好きだったんやな……」

 井上の、レフェリー引退時のコメントを置いておきたい。

「夢のような時間でした。私の生きたこの時代にプロレスという素晴らしいスポーツがあったことに感謝します。プロレス、ありがとう。レスラーであったことを誇りに思います。楽しいプロレス人生でした」(2010年5月22日)

 プロレス界は1人の好漢を失ったが、天国は更に明るく、さぞ賑やかになっていることだろう。数々の思い出や楽しいお話を、ありがとうございました。合掌。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『プロレス発掘秘史』(宝島社)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)、『アントニオ猪木』(新潮新書)など。

デイリー新潮編集部

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