「巨人移籍」が濃厚だった阪神・大山は残留へ FA宣言後に悩み続けた結果、愛するチームにとどまった“漢”たち
巨人移籍が濃厚とみられた阪神の主砲・大山悠輔が11月29日に残留を発表し、虎の4番打者がライバル球団に移籍するという前代未聞のFA移籍劇は幻と消えた。そして、大山以前にもFA移籍寸前から思いとどまり、チームに残った男たちがいた。【久保田龍雄/ライター】
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長嶋監督から連日電話で慰留され
まず“FA元年”の1993年オフ、他球団への移籍を視野に入れてFA宣言しながら、一転残留を決めたのが、巨人・槙原寛己である。
同年、FAの権利を取得した槙原は、チームトップの13勝を挙げたにもかかわらず、「トレード要員」と報じられ、2度にわたる球団側との話し合いでも慰留と呼べるような対応を得られなかったことに不信感を抱き、11月10日、FA権を行使した。これに対し、地元球団の中日が名乗りを挙げ、年俸1億2000万円プラス出来高に加え、名古屋での住宅も提供するという破格の条件を提示した。
巨人では、ポジションの重なる落合博満(中日)のFA入団が確実となり、居場所をなくした駒田徳広が11月1日にFA宣言したばかり。ファンは駒田に続いて槙原もチームを去るのではないかと気を揉んだ。
だが、ここから巨人は一気に慰留攻勢をかける。同12日、秋季キャンプを終えて宮崎から帰京した長嶋茂雄監督が連日電話をかけ、誠心誠意で残留を要請した。この熱意に心を動かされた夫人が「やっぱり巨人に残ったほうがいいわ」と説得すると、必ずしも移籍を望んでいたわけではなかった槙原も「巨人が優勝するためには、お前の力が必要なんだ」という長嶋監督の言葉が決め手となり、残留を決めた。
11月21日に長嶋監督がバラの花束を持って自宅を訪ねたエピソードも知られているが、この行動はあくまで長嶋監督の「ケジメ」であり、話は数日前についていたのである。
翌94年、槙原は5月18日の広島戦で完全試合を達成、西武との日本シリーズ第6戦でも完投勝利を収め、長嶋巨人初の日本一の立役者に。
その翌日に行われた秋の天皇賞が、1着・ネーハイシーザー、2着・セキテイリュウオーという62倍の大穴馬券となり、枠連が槙原の背番号17にも通じる1-7だったことから、巨人ファンの知人が「買っておけば良かった」と残念がっていたことを覚えている。
実は阪神移籍が現実的だった「ハマの番長」
今季日本一を達成したDeNA・三浦大輔監督も、横浜時代の2008年オフ、阪神からのラブコールに心が揺れたが、最終的に思い直し、残留を決めている。
同年、2度目のFAの権利(最初の2002年は行使せず)を取得した三浦は11月17日、「これまで悩みましたが、年齢的(34歳)にも他球団の話を聞く機会も最後となる。後悔はしたくない」としてFA宣言した。
4年ぶりV奪回を狙う阪神が先発の柱として獲得に動き、横浜の3年総額8億円を上回る3年総額10億円以上の好条件を提示した。三浦は関西(奈良県)の出身であり、父が岡田彰布後援会のメンバーだったこともあり、子供のころから阪神ファン。岡田監督はV逸の責任をとって同年限りで辞任したものの、02年以降の7年間で最下位5度と低迷する横浜を出て、阪神に移籍すれば、優勝を狙えるだけに、移籍は確実と思われた。
「一生で一番頭を使った」ほど悩みに悩んだ三浦だったが、FA宣言以降、自身のブログには6000件以上のファンの声が寄せられ、その大半は残留を熱望するものだった。さらに11月23日のファン感謝デーでも、スタンドのファンから「阪神に行かないで」「最後まで“ハマの番長”でいてくれ」などの声が絶え間なく送られた。
ファンの声を真摯に受け止め、「『強いチームに行って勝つ』のではなく、『強いチームに勝つ』のが、三浦大輔の生き様じゃないのか?」と思い当たった三浦は11月30日、「横浜が好きだから」と残留を発表。2016年の現役引退までベイスターズひと筋を貫き、16年後に“日本一監督”の栄誉を手にした。
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