「広島の人は原爆で全員死んだと思われていた」 ボストンマラソン優勝「田中茂樹」がアメリカ人から受けた非礼
「平和台」と名付け
田中の勝利を語る時、忘れられないのが、この岡部平太の存在である。岡部は約100年も前、1923年から24年にアメリカ、イギリス、フィンランドなど欧米8カ国の体育事情を視察。世界のトップ選手と直接交流し、最高峰の技術と最先端トレーニングを学んで帰国した。50年に金栗四三らと「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成、田中はその1期生だ。牛肉など高カロリーの食事を推奨し、画期的なクロスカントリーやインターバル・トレーニングを導入して若い選手を育成した。田中のボストンマラソン優勝は決して根性論の産物ではなく、こうした科学的、組織的な取り組みの成果だった。
平和台陸上競技場には岡部の胸像がある。今回初めて知ったが、福岡に平和台の地名はなかった。ピースヒルは、岡部が平和への祈りを込めて付けた名前だ。
田中が優勝した翌朝のボストン・グローブ紙の1面トップは、奇しくも連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー退任報道だった。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との言葉を報じる左側に、日の丸を胸にゴールする田中の写真がある。A-Bomb Survivor Captures Marathon.(原爆の生き残りがマラソンを制す)の見出し。新しい時代の幕開けを象徴する対比的な記事になっている。
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