「広島の人は原爆で全員死んだと思われていた」 ボストンマラソン優勝「田中茂樹」がアメリカ人から受けた非礼

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「捕虜になる」とおびえ

 ボストンに渡ったのはその6年後。田中には抵抗があった。なぜ自分はアメリカに行ってマラソンを走る必要があるのか? その心情は、生前の田中に取材した作家、スポーツライター、ジャーナリストの田中耕がNumber Web(2023年1月3日)に書いている。

〈監督に選ばれた岡部(平太)は「アメリカの伝統のある大会を制して、敗戦で打ちひしがれた日本人の誇りを取り戻す」と意気込んだ。

 ただ、戦後間もない時代、選手は不安に駆られていた。田中は岡部とこんな会話を交わしたことを覚えている。

「岡部さん、なぜ、アメリカで走らないといけないんですか。戦争で戦ったアメリカでレースをするなんて、敵国に乗り込むことと同じですよ。それは我々が捕虜にされることを意味しているんじゃないですか?」

「心配するな。私はアメリカに留学して生活をしていたんだ。君らが思っているような国ではない」〉

 それでも田中ら選手たちは、誰かが優勝できなかったら「捕虜になるに違いない」とおびえていた。

 55回を迎えた伝統のボストンマラソンは4月19日正午、ボストン郊外ホプキントンでスタートを切った。出場153名、朝日新聞は伝えている。

〈小雨降るなかを小柳選手はコース半ばの13マイルを1時間9分で通過する快速ぶり(中略)最後の5マイルで弱り、19歳の少年田中選手がかわってトップとなり遂に2時間27分45秒の好記録で優勝した〉

 田中自身は、先の朝日新聞で回想している。

〈レース中、足が痛くなった。息も苦しい。でも負けたら日本に帰れない。必死で後半の「心臓破りの丘」で勝負をかけた。2位の米国人に3分以上の差をつけてゴールイン。監督の岡部平太(おかべへいた)が涙ながらに抱きついてきた〉

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