「永遠に」「ひとり」で大ブレイクのゴスペラーズ、ヒットが出なかったデビューから6年間の苦悩と奮闘 「前例がないから自分たちで作り出した」
売り出し方を模索し、デビュー当初から6年間、セルフプロデュースに奮闘するも……
TOP3を見ると、第1位に彼らの最大ヒットとなった「ひとり」(最高3位、累計61.7万枚、以下CD売上についてはすべてオリコン調べ)、そして第3位には、その布石となったロングヒット作「永遠に」(最高14位、39.8万枚)と、彼らの大ブレイクのキッカケとなった2作がランクイン。ちなみに、「永遠に」のリリースが’00年8月、「ひとり」が翌’01年3月で、これらを受けた形で同年6月にラブソングコレクションアルバム『Love Notes』が発売に。同作は最高1位、140.9万枚を飾り、この3作によって、1年足らずでホップ、ステップ、ジャンプと大ブレイクを果たしている。
ゴスペラーズのメジャー・デビューは’94年の暮れだが、大ヒットに至るまでの約6年間をどのように過ごしていたのか、尋ねてみた。
黒沢「当時からサブカル色が強めのアーティストが多いレーベルと言われていたキューンレコード(現在の「キューンミュージック」)が面白がってくれて、メジャー・デビューしたんですが、あの頃はメンバー全員がアカペラ・サークル出身というアーティストの前例がなく、従来のカテゴリーで売り出すのがとても難しかったんです。僕らとしても、どういった曲を歌うべきなのか分からず、ただ“アカペラだけにするのはやめよう”と決めて、1stアルバムから、曲作りにも参加しました。だから、決してシンガーソングライターになりたかったわけではなく、自分たちで試行錯誤しながら作らないと歌えなかったんです」
酒井「やっぱり前例がないと、どうヒットさせるかというイメージもできないので、外部に発注しづらかったんでしょうね」
黒沢「例えば、ハーモニーのアレンジを、大御所の方に書いていただくこともできたと思うんですけど、そうするとその作家さんが外れた時に、自分たちには何も残らない。それで稚拙ながら一所懸命に作っていて、セルフプロデュース作が増えていったんですね」
酒井「だから『永遠に』がヒットするまでの6年は、僕らが育つのを待ってもらったような感じです」
ブレイク前の’97年にリリースされた「終わらない世界」は、ハンドクラップやヒューマンビートボックスを多用し5人の歌唱力を存分に表現したナンバーで、ファン投票やライブでもいまだに人気だ。きっと知らない人が聴いても、ゴスペラーズらしい名曲だと感じることだろう。しかし、実際はオリコン最高64位どまりだった。
酒井「これが好きな方はお目が高いですね。この曲は、本当はアカペラでリリースするつもりで作ったんです。でも、レコード会社の会議で、“ヒューマンビートボックスとアカペラだけでシングルを出すのは時期尚早だろう”とNGが出て……」
黒沢「結局、パーカッションの音も入れたんですが、そこまで変わってないんですよ(笑)。デビュー曲の『Promise』も、もともとアカペラ・サークルで歌い継がれていた曲をいただいたのですが、やっぱりカラオケで歌ってもらったほうがプロモーションになるという判断で、バンドの演奏で歌うことになったんです。 だから、『永遠に』や『ひとり』がヒットしてからのアルバム『Love Notes』に収録した『Promise -a cappella-』(Spotify第19位)こそが本来の姿なんです」
酒井「最近のカラオケ機器ならハモリもキレイに出るんですが、当時は再現できなかった。全篇アカペラの『ひとり』がカラオケに入ったころも、まだシンセサイザーが発達していなくて、電子音丸出しでした(笑)」
’98年には、なんと作詞:阿久悠×作曲:筒美京平、さらにアニメタイアップ(テレビ東京系アニメ『はれときどきぶた』)というシングル「BOO~おなかが空くほど笑ってみたい~」をリリース。これらの情報だけでもヒットへの期待度の高さがよく分かるが、実際はオリコン最高72位どまりだった。
黒沢「いつヒットしてもいいくらい素敵なお話を何度も持ってきていただいたのに、どうも売れない。この曲も、こんなにポップな楽曲で、僕らも最高に盛り上げて歌っているのに、あれ? おかしいなー、と(苦笑)」
酒井「でも今はストリーミングを通して、’90年代に発売した『終わらない世界』(Spotify32位)や『BOO~おなかが空くほど笑ってみたい~』(Spotify36位)が、ブレイク後の楽曲と並んでたくさん聴かれているのは嬉しいですね。デビュー当時から、カバー曲や提供曲、自作曲といろいろ試してみて、『終わらない世界』以降は僕らが好きなブラック・ミュージック、R&B寄りになっていきました。デビュー当時は、好きな作風をそのまま出しても、みんなピンとこない時代だったけど」
黒沢「’98年頃にMISIAさんや宇多田ヒカルさんでジャパニーズR&Bブームが来て、’00年に平井堅さんが『楽園』でヒットし、“こういう洋楽テイストの曲を作ってもいいんだ”と思えたのが大きいですね。その頃、“ブラック・ミュージックが一番熱いアトランタに、ブレイク前だけど新進気鋭のプロデューサーがいる”と聞きつけて、『永遠に』をプロデュースしてもらったんです」
酒井「これが最後のチャンスとも釘をさされていました(笑)」
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