【光る君へ】NHK大河では描けない…汚物まみれで死んでいった「道長」の苦しい最期
1カ月のあいだに失った2人の娘
これまで子女に恵まれ、そのおかげもあって栄華を極めてきた道長だったが、数え60歳を迎えた万寿2年(1025)からは、自身の子女に関して、立て続けに不幸に襲われることになる。まずこの年の7月9日、次妻の明子が産んだ三女で、小一条院(東宮を辞退した敦明親王)の女御になっていた寛子が、数カ月にわたって病に苦しんだ末に死去した。享年27だった。
以後は堰を切ったかのようだった。正妻の倫子が産んだ六女の嬉子は、長女の彰子が一条天皇とのあいだに産んだ東宮の敦良親王のもとに嫁いでいた。そして目論見どおりに妊娠したのだが、臨月を迎えてから伝染病である赤痘瘡(麻疹)に感染してしまった。8月3日には無事に親仁王(のちの後冷泉天皇)を出産したものの、その2日後、わずか19歳でこの世を去っている。
こうして道長は、わずか1カ月のあいだに、まだ若い2人の娘を失ったのである。とくに嬉子の死には接しては悲嘆に暮れ、遺骸を寺院に移してからもずっと付き添っていたという。
道長が仏法に頼り、莫大な負担を強いて法成寺を整備してきたのは、自身が極楽往生するためであるとともに、一族の繁栄を願ってのことだったはずだ。ところが、それがなんの役にも立たず、道長は仏法を恨んだ――。そういう噂もあったと、実資は日記『小右記』に標している。
さらに2人の子を失って悪化する病
そして万寿4年(1027)を迎える。病に倒れたのは、倫子が産んだ道長の次女で、三条天皇に入内してから宴会狂いが非難を浴びることもあった妍子だった。4月には衰弱して食事もきちんと摂れなくなった。
だが、心配する道長のもとに届けられたのは、妍子より前に、明子が産んだ三男で、出家して比叡山にいた顕信の死だった。まだ34歳だった。しかも、妍子の病もどんどん進行していった。7月には手足が腫れ、人事不省となり、9月4日に出家したのちに死去。享年は顕信と同じ34だった。
たった2年でわが子4人の死。こうして精神を打ちのめされ続けては、元来が病気がちで飲水病(糖尿病)の持病もかかえていた道長の免疫力が、急速に低下しても不思議ではない。
実資の『小右記』によれば、この万寿4年は、正月から嘔吐などの症状が繰り返され、6月には飲食を受けつけなくなり、かなり衰弱したという。それでも妍子の見舞いには出向くし、7月4日には、人に体を支えてもらいながら法華八講に出席するが、こうしたがんばりはまったく報われない。
9月17日の妍子の葬送には歩いて従ったが、病は悪化する一方だった。激しい下痢を伴う腹痛に悩まされ、妍子の四十九日法要には列席できていない。
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