「ナチスドイツと何が違うのかを自問し続けるべき」 コロナ対策を突き詰めると“ディストピア”が訪れかねない(古市憲寿)
世界がコロナ時代に突入した2019年末から、もうすぐで5年になる。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざの通り、「コロナ」という言葉自体ほとんど聞かなくなった。
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だが冷静に考えれば、とんでもない出来事が多発した時代だった。「夜の街」が標的にされ、アルコール提供の自粛が求められた。東京では百貨店の中でも高級店が狙い撃ちで休業に追い込まれた。戦時下の「欲しがりません勝つまでは」と一緒だ。目的達成のためなら、ぜいたくは許さない。自由なんて奪ってもいい。感染症を封じ込めるという名目なら、何をしても許された時代だった。戦時にしても、パンデミックにしても、一つの目標にまい進する社会では、個人の自由や、少数派の意見がたやすく「仕方ないこと」と切り捨てられてしまう。
なぜこんな異常なことが起きてしまったのか。そのヒントがコロナ時代に「8割おじさん」として有名になった西浦博さんのSNSにあった。彼はつい最近、Xで「カスタマイズした社会へ誘導」という言葉を使っていた。感染症の流行期において、きちんと法律に基づいた対策をしないと、いくら「優秀な官僚」でも「カスタマイズした社会へ誘導」できないというのだ。
非常にグロテスクな発想である。なぜ社会を簡単に「カスタマイズ」できて、その状態に「誘導」できると思うのか。自分を神様とでも思っているのか。
当然ながら、社会は感染症対策のためだけに存在しているのではない。さまざまな人々の利害と欲望の結節点として社会がある。決して簡単に「カスタマイズ」できるものでも「誘導」できるものでもない。
計画的に理想社会を築こうという発想は、どうしてもナチスドイツや社会主義に近づいてしまう。理想からはみ出す人を排除しようという発想になるからだ。一見するとナチスと対極の北欧でも、障害者に対する強制断種手術が行われていた時期がある。
公衆衛生の発想を突き詰めると、ディストピアが訪れかねない。それは公衆衛生が性質上、個人よりも集団を優先するからだ。もちろん有効に働く場合もある。公衆衛生のおかげで、コレラやチフスなど数々の感染症が抑え込まれ、人々の平均寿命は延びた。
だが公衆衛生に基づいた政策が、個人の自由を制約する可能性がある以上、専門家や関係者は常に緊張感を持つ責務がある。自分たちがしていることはナチスドイツと何が違うのかを自問し続ける必要がある。
残念ながら、西浦さんの「カスタマイズした社会」という言葉からは、その逡巡が一切感じられなかった。人類史上、逡巡なく正義を盲信する人々が起こした厄災は数知れない。
有事ほど声の大きい人が影響力を持つ。2020年4月、西浦さんは検証不可能な形で「国内で約85万人が重症化」「その半分が死亡する恐れがある」という発表をした。冷静さを取り戻した今だからこそ、専門家の功罪を検証する必要がある。