令和の「西成暴動」は起きず 「あいりん総合センター」野宿者を強制退去の一部始終

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 大阪市西成区のJR新今宮駅前から色とりどりのベストをつけた作業員や市職員、さらには警官や裁判所の執行官らが、「あいりん総合センター」に向かって歩き始めたのは12月1日午前7時前のことだった。その数ざっと数百人。無言を貫く彼らの表情はマスク越しでうかがい知れないが、このあと起こり得る事態を思えば、緊張しているのは明らかだった。

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「年寄りばかりで、反対する元気なんてあらへん」

「あいりん総合センター」とは、1970年に建てられた、日雇い労働者たちへの職業紹介や労災・労働相談などを行う支援施設である。住居の他、病院や売店、床屋などもあり、ひと頃は大いににぎわったという。

 老朽化に伴い2019年に閉鎖するも、その後も周辺に野宿者たちが居座ったために建て替えは進まず、ついには裁判にまで発展して今年5月、ようやく立ち退きを命じる判決が確定した。

 だが、判決が出たとはいえ、ここが容易ならざる場所であることは、街の歴史が物語る。すなわち「西成暴動」だ。1961年の第1次暴動に始まり、たびたびこの地では行政側と日雇い労働者側との間に激しい衝突が起きていた。それから六十余年、今回は……。

 結果からいえば、ほとんど何も起こらなかった。センターの周辺に寝泊まりしていた老人は、「何が万博や、何がIRや」と悪態こそつくが、「強制執行やなんて、2~3日前に言うてくれればワシら自分で片付けたのになぁ」とボヤくのみ。また、近くの簡易宿泊所(ドヤ)で暮らす男性も、「奇麗にするんやったら、はよ壊せや。この辺に住んどるのは数人で、年寄りばかりや。反対する元気なんてあらへん」と言う。

 かつての暴動の地も、いまや老人ばかりの寂しい街となっていたのだ。施設をバリケードで囲い、野ざらしの家財道具を重機で運び出すまで約3時間。片付けが終わった頃にやって来た炊き出しボランティアが、一応の抵抗を示したが、それ以上の騒ぎにはならなかった。

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