王貞治をしのいだ唯一の本塁打王「田淵幸一」 “ホームランアーチスト”を育てた三人のコーチング(小林信也)
二人の打撃コーチ
1969年、ドラフト1位で阪神に入団。デビューは対大洋戦、江夏豊の代打で打席に立った。マウンドには大洋のエース平松政次。
「ど真ん中のストレートが3球。まったく手が出なかった。三振です。その一打席で“上段の構え”じゃ間に合わない、グリップを下げようとすぐ決断した」
アマチュアとプロの違いを痛感した。即座に対応するのも田淵の順応性の高さを表している。
「あと、俺を育ててくれたのは豊だったね」
田淵が、プロ入りは2年先輩、年齢は二つ下、エース江夏の名を挙げた。
「春のキャンプで豊の球を受けた時、速すぎてミットをきちんと止めて捕れなかった。それで二の腕を必死に鍛えた。プロでもホームランが打てたのは手首の強さに加えて、豊のおかげで二の腕を鍛えたからだ」
2年目に就任した藤井勇コーチの存在も大きかった。
「虎風荘(阪神の合宿所)に藤井さんも住んでいたから、夜になると『田淵、やるぞ』と迎えに来てくれて素振りを重ねました」
6年目の74年、田淵は年間45本塁打を打った。それでも王貞治の49本に及ばなかった。だが翌75年、ついに43本で初めてホームラン王に輝き、王の連続タイトルを13年で止めた。
この年は“内角打ちの名人”とうたわれた山内一弘がコーチに就任。山内は、後に伝説となる田淵の一打にも影響を与えた。
「山内さんは変なことを言うんだ。『ボールを捉えて、バットを押せ』って。最初は理解できなかった」
西本聖を攻略
山内の教えが開花するのは79年に西武へ移籍後、83年の日本シリーズで巨人と対戦した時だ。第1戦の2回裏に江川卓から3ランを打って勝利に貢献した田淵は2勝2敗で迎えた第5戦、日本シリーズ29回連続無失点を続ける西本聖にも一発を浴びせた。
「西本には2戦目に完封負けしていた。あのシュートは、分かっていてもゴロになる。長いバットじゃ打てないからグリップエンドに絆創膏を巻いた。短くなったバットでシュートをホームランしたんだ」
打球は見事なフェードボールでレフトスタンドに舞い込んだ。山内に、「左肩は開かない。下半身を早く開いて体を回す。捉えたらバットを押す」と教えられた、そのとおりの打法で西本を打ち砕いた。その試合は敗れたものの、最終戦で西本を攻略し西武が日本一を勝ち取る布石となった。
感覚派の印象が強い田淵だが、通算474本のホームランは、実は緻密な分析と知られざる努力の結晶なのだった。
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