三億円事件“有名すぎるモンタージュ写真”は「犯人に似ていない」…昭和の名刑事・平塚八兵衛が迫った「真の犯人像」

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 今年で創立150年となった警視庁で、“昭和の名刑事”と呼ばれた平塚八兵衛氏(1913~1979)は警視庁退職後、『週刊新潮』で回想録を連載した(「八兵衛捕物帳」昭和50年4月17日号~同12月25日号)。連載の終盤で、三億円事件の時効(同年12月10日)を迎えている。回想録でも何度か同事件に言及しているが、その中で平塚氏が特に強調していたのが、「犯人の年齢」と、日本中に流布され有名になった「犯人のモンタージュ写真は似ていない」ということだった。その理由とは何か――名刑事が遺した捜査の極意と、三億円事件の犯人像とは……(引用は全て上記連載から。全3回の第3回)

犯人の年齢は?

 三億円事件の捜査では、現場に残された偽装白バイはじめ、62点にのぼる犯人の遺留品が押収された。それらの追跡捜査、累犯前科前歴者の洗い出しを重点に、特捜本部が捜査対象にした人物は12万人近くにまで及んだ。また、動員された捜査員ものべ17万1805人という、文字通りの“史上空前の大捜査”が展開されたが、犯人検挙にはいたらなかった。

 事件発生から約4か月後の昭和44年4月から三億円事件の特別捜査本部に入り、同47年7月からは捜査主任として本部を指揮した平塚氏。連載でも指摘しているが、事件が未解決に終わった最大の要因は「初動捜査のミスにある」という。その中でも、

〈一つは、(犯人の)年齢の問題である。事件発生当時は十八歳から二十五 歳ぐらいまでの男が手配されていたのだが、私が捜査を担当するようになってからは、この年齢をぐっと上げた。犯人は事件当時、三十歳近かったと見て、当時二十歳以下だった男、つまり昭和二十三年以後の生まれの男には手をつけるな、というのが私の方針だった〉

 なぜ、犯人の年齢を引き上げたのか――それは初動捜査で得られた、被害者(現金輸送車に乗っていた日本信託銀行員)の供述が怪しい(信用できない)と、平塚氏が思ったからだった。「犯人は18~25歳」とされた根拠は、ある行員の以下の供述を、特別捜査本部が重視したからだった。

「犯人は20歳から25歳くらいの男で、手をあげて現金輸送車をとめ、白バイから降りて走り寄って来る行動も若々しかった」

 前回で紹介した「立川グループのS」の特命捜査を終えた平塚氏は、「銀行内部の捜査」に従事することになる。被害を受けた日本信託銀行国分寺支店を“洗う”――これも特命捜査である。

〈私が銀行内部の捜査をしているときのことだ。このF(上記の供述をした行員)がノイローゼ状態になり、心配した支店長がそれとなく別の行員を護衛につけているという話を耳にした。Fに限らず、現金輸送車に乗っていた他の三人も、責任感から似たような心理状態になってはいたが、Fの状態が最も激しかった。それが私のカンにひっかかった〉

 そこで平塚氏はFの護衛をしていた行員に、本人の健康状態などを聞いた。すると、その行員は驚くべきことを口にした。

「私は通勤途中の国電の中で聞いたのだが、Fはほんとうは犯人の顔なんか見てはいないんです。それなのに、警視庁で犯人に似ている顔の写真の選別をさせられて困っているということでした」

〈Fは、三億円を持っていかれた銀行員の責任からも「何も見ていませんでした」とはいえなかったのである。ことに他の三人が証言しているのに、自分だけ見なかったとは言いづらかった。その気持ちが彼にウソをいわせてしまったのだ。他の行員が「三十歳」などといっているので、彼は「二十歳から二十五歳くらい」という。自分ではウソをついているという認識があるから、それなりに自説を強調する。それに刑事がつい乗ってしまったのだ。証言者の立場、つまり三億円を奪われた責任を重く感じている銀行員の立場に、刑事は思いが至らなかったのだ〉

 目撃者がウソをつくのではなく、本人の“立場”がそうさせる。目撃者の置かれた状況を察し、人間的な配慮を忘れてはならない。DNA鑑定や防犯カメラの追跡など、科学捜査が主流となった現代でも通じる、捜査の要諦だろう。

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