三億円事件が未解決なら「自殺でもしなくちゃならねえ」…昭和の難事件と対峙し続けた伝説の刑事「平塚八兵衛」という男

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刑事にコテンパンにされて…

〈中学を出て遊んでいたころの話だ。私は二十二、三まで百姓をやっていたが、中学を出たころはしょうのないゴクツブシ野郎だった。警察官にならなければ、前科者になっていたかもしれない〉

 ある日のこと。中学の後輩から「デカい顔したヤツがいやがって」という話をもちかけられた。その後輩に対し、威圧的な言動を見せていたという。

〈「そんなのブッとばしちゃえ」ということになり、ほんとに田んぼでブッとばしちゃった。私はチビだから投げられやすい。投げられる前にやっつけてしまわねばならんから、非常に手が早かった。翌日、土浦町の祇園に遊びに行った。近くに警察がある。その前を通ると「ちょっと来い」と刑事にひっぱり込まれた。私がブッとばした野郎がこの警察の給仕で、あいつ、今にこの前を通るだろうと張り込んでいたのである〉

 刑事たちから「この野郎、二度と土浦に出てくるな!」と、こてんぱんにやられた平塚氏。問題はここからである。

〈たかがチンピラのケンカに介入してきて、思う存分人をぶん殴るなんて、やっぱり刑事はすごい権力を持っているものだな、と私はそのときつくづく考えた。よし、それならオレもひとつ刑事になってやろう、というわけだ〉

 ちなみにこの話は、昭和13年のこと。現在とは法令も異なり、権力をカサにきた「おい! こら!」警官が、街のあちこちにいた時代である。

〈しかし、当時の巡査試験はけっこうむずかしかった。私はまず身長が足りなくてハネられた。そういうのが四人いた。四人で試験場に使われていた警察学校の校庭でボンヤリうずくまっていたら、「オイ、そこの寸足らずども、まあいいからこっちへ来い」といわれ、ともかく試験だけは受けさせてくれた。試験の成績は悪くなかったのだろう、四人のうち三人は採用となった。こうして寸足らずだったけど、私は警察官になれた〉

 こうした例外措置も“昭和ならでは”だ。だが、警視庁にとってはこの時の機転で、将来の名刑事を生むことになるのだから、この時の採用担当者は警視庁に多大な貢献をしたことになるだろう。

 昭和14年、警視庁巡査を拝命した平塚氏は、鳥居坂署(現在の麻布署)で警察官人生をスタートさせる。ここで、同18年に捜査第1課に異動するまで、驚異の検挙率を誇ったという。その理由は、これも今の時代では考えられないが、休日返上で悪い奴を追っかけていたのだ。

〈こんなことを書くと、すぐ人は私のことを「オニの八兵衛」などという。が、私はオニではない。当番日(夜勤)には一睡もせずに仕事をやり、非番日にも勝手に仕事をしただけだ。非番日に私服で出て、「若いのに私服なんか着やがって」としかられた。昔は、若い警察官は常時制服を着ていなければならず、私服は禁じられていた〉

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