いいとも「ウキウキ WATCHING」は20分で誕生 アン・ルイスやトータス松本らを手がけた「伊藤銀次」の音楽人生

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第1回【主役より“脇”が気になった少年が切り開いた音楽の道――伊藤銀次、ビートルズとの出会いとプロへの第一歩】のつづき

 歯科医の跡を継ぐ道を断念し、音楽で生きていくと決めた伊藤銀次(73)。自身のバンドをプロデュースしてもらうために大瀧詠一に連絡を取る。その後、世界は広がり、数々の名曲の作曲、アレンジなどを施してきた。

(全2回の第2回)

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大瀧詠一にプロデュースを依頼

 歯科大を休学し、大阪でバンド「グラス・ブレイン」の活動をしていた頃、「はっぴいえんど」の曲を聴いた。それまで日本語ロックへの違和感が拭えてなかったが、「はっぴいえんど」の曲にはそれまでに聴いたことのない新しさを感じた。

「英語で適当に歌詞を作ってるときはリズムがあるのに、日本語になった瞬間にべたついて躍動感がなくなる。ロックって日本語は合わないなと思っていたけど、『はっぴいえんど』は欧米のロックみたいなノリの日本語の音楽でした。日本語でもロックできるなと思って、コピーバンドをやめて、『グラス・ブレイン』を母体にした『ごまのはえ』というバンドで日本語のロックを作ったんです」

 シングルは何とか作ったが、アルバムを作る自信はつかなかった。レコーディングの経験が少なかったことがその理由だが、そこで大瀧詠一にプロデュースを依頼することにした。

「僕らは大阪のバンドだったので、コミカルでユーモアのある音楽も作っていた大瀧さんなら僕らを理解してくれるんじゃないかなと思い込んで、お願いしたんです」

 大瀧も「興味がある」と「ごまのはえ」のライブを見に来た。当時、伊藤が住むアパートに来て、夜通し音楽談義を交わした。同じ事務所に所属してからは、東京都福生市にあった大瀧の自宅から歩いて2~3分の近所に家を借り、バンドメンバー5人で共同生活を始めた。

 大瀧はプロデュースのみならず、バンドの大改革にも着手。メンバーチェンジなども経て、「ごまのはえ」は新たなバンド「ココナツ・バンク」へ生まれ変わった。だがほどなくして、1973年9月21日の「はっぴいえんど」の解散コンサートにバックバンドとして出た翌日、「もう銀次にはついていけない」とバンドは解散してしまった。

ポップなセンスが引く手あまたに

 大瀧は後に、「ごまのはえ」のライブを聴いた際の「紙ひこうきの歌」という、のちに「ココナツ・ホリデー」と改題されることになるインストゥルメンタル曲に“ポップさ”を感じ、プロデュースを引き受けたと伊藤に明かした。そのセンスを大瀧が嗅ぎ取ったことが、山下達郎をはじめとする多くのミュージシャン仲間と交流するきっかけを作り、伊藤の音楽活動の枝葉を広げることにつながった。

 1979年頃からは松原みきをはじめ、アレンジャーの仕事も手掛けるように。佐野元春もアレンジャーから縁ができ、後にバンドのギタリストを務めるまでに。そして1980年暮れに発表したアルバム「G.S. I LOVE YOU」を皮切りに、人気絶頂の沢田研二のアレンジを始めた。シングル「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」や復活したザ・タイガースの「色つきの女でいてくれよ」、加えてアン・ルイスの「ラ・セゾン」「六本木心中」なども編曲した。

詞曲が楽曲の要であることはいわずもがな。アレンジャーもまた、広く人々に聴かれる形に仕上げる、重要な役目のはずだが……。

「作詞作曲には著作権が発生するけど、編曲は作業に対する手数料・対価でしかない(苦笑)。バンド活動を通じて、イントロも間奏もすべて自分たちで演奏してきたから、この歌の出だしに一番カッコいいイントロは……と考えるのは、当たり前の作業です。『六本木心中』は最初、ザクっとした男くさいロックで、そのままやってもアンちゃんに合わない。カラフルでポップにしたかった。その少し前に流行っていた『Flashdance…What a Feeling』のような感じで行こうと。ただなかなか歌につながらなくてイントロに3つの部分があるやたら長いものになって。もうイントロだけで作曲の著作権いただきたいぐらいです(笑)」

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