主役より“脇”が気になった少年が切り開いた音楽の道――伊藤銀次、ビートルズとの出会いとプロへの第一歩

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耳コピでギターを始める

 ジョン・レノンやポール・マッカートニーのように弾きながら歌いたい、とギターを始めた。当初は友人のギターを借りていたが、高校合格を機に親に買ってもらった。だが、ビートルズのソングブック通りに弾いてみても、レコードの音とは似ても似つかなかった。

「日本人にはビートルズのキーが高すぎて、低いキーにしてあったらしいんです。それじゃしょうがないと、レコードを聴いて耳コピを始めた。そうするとコード展開とかいろんなことが分かってきました。当時、僕の周りにいた人はリードギターは弾けても、コードを弾ける人がいなかった。なので、いろんな曲のコードをやってくれと頼まれ、4バンドぐらい掛け持ちするようになりました」

 耳コピで新たなコード進行に出会うたびのめり込んだ。じきに日本ではGS(グループサウンズ)ブームが来たが、彼らのサウンドには違和感を覚えたそうだ。

「デビュー前は洋楽カバーをやっていたのに、デビューしたら日本の唱歌のような分かりやすいメロディをロック調で歌っていた。日本にはロックの素地がないから、日本人の好きな空気感を残して作ったんだろうなと生意気にも考えて。だとしたら俺は日本でデビューしたくないなと」

 1969年に歯科大学に入学しても、大阪で洋楽コピーのバンドを続けた。新聞広告で見た天王寺野外音楽堂のフリーロックコンサートへ出場し、旗振り役だった後の音楽プロデューサー福岡風太らに気に入られ、翌年8月に大阪城公園で開催した「ロック合同葬儀」にスタッフとして加わった。そのライブでのギターが評判を呼び、関西ローカルで活躍していた「グラス・ブレイン」というバンドに加わり、プロへの第一歩を踏み出した。バンドが面白く、大学は休学した。

「音楽を諦めて歯科医になり、将来、自分が診療中に知っている人の音楽が流れてきたら後悔すると思ったんです。長男でしたから、父を継ぐって思っていましたが、敷かれた線路の上を走ることに抵抗があった。自分の人生なんだから自分で切り開きたいと」

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 ついにプロの道へ足を踏み入れた伊藤。第2回【いいとも「ウキウキ WATCHING」は20分で誕生 アン・ルイスやトータス松本らを手がけた「伊藤銀次」の音楽人生】では、バンド活動以外に作曲家やアレンジャーとして注目を浴びた自身の人生について語っている。

デイリー新潮編集部

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