「遺族には会いづらいね。やっぱり親の仇だもんね」 “力道山を刺した男”が明かしていた「事件」の一部始終
それはまさに「突発的に起きた」
当時、この事件には、背後にプロレスの興行権をめぐる暴力団同士の抗争があったとも伝えられた。その“鉄砲玉”が村田組員というわけだった。
が、彼によると、事件には何の背後関係もなかったという。それはまさに、「突発的に起きた」のだった。で、続いて飛んできたのが、力道山のパンチだったと当人は言う。
「頭を一発ガツンと殴られて、俺はフッ飛んで、フロアに俯せに倒れたんだ。すると力道山は俺の上に馬乗りになり、何度も頭を殴りつけたんだ」
そのパンチがどれほど凄まじかったか。
「このままでは殺される」と思った彼は、殴られながら、フトコロに呑んでいた登山ナイフを取り出し、力道山の隙を見て、「クルッと体を半回転」させ、体ごとそれを「力道山の腹に突き刺した」のである。
力道山が死んだのはそれから7日後。直接の死因は、入院先の山王病院で腹膜炎を併発したこと。あっけないほどの“不死身の男”の死であった。
彼らにとっちゃ、やっぱり親の仇
その村田組員は、現在49歳。もうチンピラなぞではなく、レッキとした広域暴力団、住吉会「村田組」の組長である。ただし、本人によれば、この地位は、“力道山を刺した男”という勲章によって勝ち得たものではない。
「長年ヤクザをやっていれば、組の一つぐらいは持てるようになる」という。
ま、それはともかくとして、いま、村田組長は、
「判決は懲役7年。(昭和)46年に出所してから、その後も拳銃不法所持や覚せい剤の不法所持、賭場開帳なんかで計2回逮捕され、前科は12犯になったけど、力道山の遺族にはまだ一度も会ってないよ。会いづらいね。俺は彼らにとっちゃ、やっぱり親の仇だもんね」
といいながら、
「ずいぶん前だけど、二度ほど力道山の息子を、銀座や六本木のバーやクラブで見かけたことがあったんだよ。しかし、その時は、相手が気づく前に店を出ちゃったね。退散しちゃったわけだ。俺のことを親の仇だと思ってるだろうから、顔を合わすのはまずいんだよ」
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